・グループホームなるとう 施設長の小言です。 不定期更新です。
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リロケーションダメージ
2007/09/05(水) 04:46:25

結構前のことになるけど、とある行政官の方に「移り住みは認知症高齢者に良くないので、グループホームでターミナルケアを行うのは当然(=どんな状態になっても転居させるなってこと)です」と、トンチンカンなことを語られたことがあった。

ターミナルケアに取り組む理由が「移り住みが良くないから」なんていう呆れる発言・・・・・、と言うかターミナルケアと移り住みをごちゃ混ぜにする考え方は「こいつ分かってねえなぁ」と無視すりゃいいのでどうでもいい。

と言うことで、今回は、移り住みについての僕の考えを書こうと思う。

◇◇◇◇◇

「リロケーションダメージ=移り住みの害」

皆さんに「自分が初めて職場に出勤した時のこと」を思い出してほしい。

周りは知らない人だらけ。
自分は何をすればいいのか分からない。
どこに何があるのか分からない。
おしっこがしたくなったって、トイレの場所が分からない。

引越しをした時はどうだろう???

引越しをした時でも困り果てる。
家の中は自分が住む場所にしようと選んだところだからいいにしても、自分が生きていくために必要な社会資源(スーパー、コンビニ、その他いろいろ)は、自分の家の周りのどこに何があるかよく分からないので、引越しした当初は生活していて困るし不便を感じる。
更に、自分の家の近所にはどんな人が住んでいるか分からない、自分の家がある街のルール(ゴミ出しの日など)が分からないから、不安をもったり、不便を感じる。

◇◇◇◇◇

と、まあ人間なら誰だって(認知症の状態でなくても)知らない環境に置かれると、不安や混乱が襲ってくるし、生きていくことに不便を感じる。

それを人間は、場所や他人(自分に影響を及ぼす環境や人間)を記憶したり、認知していくことで解消していく。
更に、記憶し認知したものを、自分が生きていくために利用したり、自分の意思を行動に移す上で活用していく。

◇◇◇◇◇

じゃあ、人間は場所や他人(自分に影響を及ぼす環境や人間)をどうやって記憶したり認知したりするのか?

自分が持てる機能や能力を発揮して、誰かに教えてもらったり、自分なりの目印を見つけたりして「情報」を収集し、忘れないように何かに書き留めておいたり、見たもの聞いたものを脳に直接刷り込ませておいたりする。

これが、記憶や認知といった機能や能力に障害を持つ認知症の状態にある人にはなかなか難しいことなのだ。

◇◇◇◇◇

僕から言わせたら、人間だったら誰だって(認知症の状態にあるとか関係なく)環境を変えられたり、新しい環境に自分が置かれたら「リロケーションダメージ」を受けるのは当たり前。

そして人間はそのダメージをより最小限にするために、自分の持てる機能や能力(技)を発揮しているけど、認知症の状態にあったら、そのダメージを解消していく技がうまく使えないのも当たり前なのだ。

だけど「認知症の状態にある人の移り住みはリロケーションダメージを受けるから良くない」なんて、声高々に言う専門職が多い。

専門職なら、認知症の状態にある人の移り住みによって生まれる障害を「任せとけ!」と迎え撃ち、解消するのが仕事だと僕は思うのだが・・・・・。
だって、人間なら誰だってリロケーションダメージは受けるし、認知症の状態だから、そのダメージを解消をする技が上手く使えないのだから・・・・・。

◇◇◇◇◇

24 時間、365日、いつどこでどんなふうに生活への障害が出るか分からないからこそ、点(ポイントポイント)の支援ではなく、線の支援が必要な認知症の状態にある人たちに「リロケーションダメージを受けるからって移り住みは良くない」なんて言っていたら、認知症の状態にある人はグループホームにすら入居できない。

それでは、すでに自宅ケアで支えていくには限界が来ている認知症の状態にある本人や家族は、身も心もボロボロに壊れ、共倒れしてしまう。

いいかげん「認知症=リロケーションダメージを受ける。だから移り住みは良くない」っていう考えをなくしたいものだ。


職員って何人必要???(2)
2007/08/15(水) 22:18:03

さて、皆さんは前回の話しから何を思い、何を考えましたか?

僕はこんなことを思い、こんなことを考えました。

◇◇◇◇◇

(1)
応募してくれた人は、何をとって前の職場には人手が少ないと感じていたのだろう?

恐らく、自分の仕事(業務?)が常に忙しかった(忙しいと感じていた)からだろう。忙しい=大変。

(2)
この応募してくれた人は、何が忙しかったんだろう?

食への支援だけでは分からないが、恐らくこの人が働いていた前の職場(グループホーム)は、婆ちゃんたちへの支援が基本的に「何でもしてあげる」だったのではないか?。
その「何でもしてあげる」という仕事(業務?)が忙しかったんだろう。

(3)
「知らない」ということは、時に問題を作る

この応募してくれた人は、グループホームの人員配置基準を知らなかった。自分の忙しさだけに翻弄され、自分の立場(介護職)でしか人手というものを考えていない。

(4)
「考えない」ということは、時に問題を作る

この応募してくれた人は、自分のところで婆ちゃんたちに提供している支援=自分の仕事は何のか?を考えていなかったようだ。
忙しさは専門職としての仕事をしていての忙しさなのだろうか?

(5)
「知らない」「考えない」ことを良しとする職場で人は育たない

ただ決められたスケジュールや業務分担をこなす人は専門職とはいえない(僕はそう思っている)。
でも、決められたスケジュールや業務分担をこなす人“だけ”が必要なら、知らせる必要もないし、考えさせる必要もない。
必要なのは思考や感情を備えている「人」ではなく、思考や感情のない人間の形だけをした「機械」だ。

◇◇◇◇◇

もし、決められたスケジュールや業務分担によって忙しいのであれば、人手を増やすだけが方法ではない。他にも解消する方法がある。

「効率化」を図ればいいのだ。

建物の形態や設備を、職員が時間的ロスをしなくて済むようにしたり、職員が便利に効率よく使えるようにする。
他にもあらゆることに機械的・組織的なシステムを取り入れ、どんどんスピード化を図る。要は無駄を省く。などなど・・・・・。

どうせ人を雇うのに使おうと思っていたお金。そのお金を効率化に使えばいいのだ。そうすれば人手不足も解消する。
人を雇う。効率化を図る。どちらも、お金を使うことに変わりはない。どこにどう使うかだけの違いだ。

まあ僕は、効率化を図れば良しとする仕事(業務)を、専門職としての自分の仕事(支援)とは考えていないので、スケジュールや業務分担の効率化のためだけにお金は使わないが・・・・・。

◇◇◇◇◇

職員が何人必要かというのは難しい話しだ。

現場の職員の多くは、自分の仕事(支援)=「忙しい」と感じている。
でもその「忙しい」は、どんな仕事(支援)によって忙しいのかは考えなければいけないと僕は思う。
そして自分たちの仕事(支援)を考えた上で、自分たちが専門職として婆ちゃんたちが人として生きることを支援するには「これだけの人手が必要」だな?と考えていく必要があるのではないだろうか?

◇◇◇◇◇

最後に・・・・・
この職員って何人必要かについては、まだまだ書き足りないので、改めて別の機会に書き込みします。


職員って何人必要???(1)
2007/08/01(水) 20:46:59

先日、うちのグループホームの職員募集に応募してきてくれた方の採用面接を行ったときのこと。

この人は前職もグループホームの介護員だったそうだ。

◇◇◇◇◇

応募してくれた人>>>
「以前働いていたグループホームは人手が少なくて大変だったんです」

梅本>>>
「そうですかぁ・・・・・。で、日中は何人職員が配置されていたんですか?」

応募してくれた人>>>
「3人です」

梅本>>>
「へぇ・・・3人ですか。その3人っていうのは早番、日勤、遅番で3人ですか?」

応募してくれた人>>>
「そうです」

梅本>>>
「そうですかぁ・・・。で、その早番、日勤、遅番はそれぞれ何時間勤務だったんですか?」

応募してくれた人>>>
「みんな8時間勤務です」


さて、さらに話しは続く。

◇◇◇◇◇

応募してくれた人>>>
「以前もグループホームで働いていたので、次の職場もグループホームがいいと考えているんです」

梅本>>>
「なるほど。でも・・・・・、一概にグループホームっていっても全て同じってわけじゃないですからねぇ」

応募してくれた人>>>
「えっ?そうなんですか」

梅本>>>
「じゃあ例えば食事を例にしてみましょうかね。うちのグループホームでは基本的に毎日3食とも入居者と職員で食事を作っているんですけど、あなたが働いていたグループホームはどうでしたか?」

応募してくれた人>>>
「週に1度、お昼に食事作りのできる方と職員で作っていました。手作り食事会っていうことで・・・」

梅本>>>
「その他はどうしてたんですか?」

応募してくれた人>>>
「調理員の方がいるので、その人たちが作っています」

梅本>>>
「えっ?専属で調理してくれる職員さんがいるんですか?。介護員とは別で」

応募してくれた人>>>
「そうです」

梅本>>>
「調理員さんが食事を作っている時、入居者の人たちはどうしているんですか?」

応募してくれた人>>>
「皆さん思い思いに過ごされています」

梅本>>>
「介護員は何をしているんですか?」

応募してくれた人>>>
「色々とやることがあるので・・・・・」

(色々やることのやることとは何なのかは分からなかった)

◇◇◇◇◇

さてここで、僕なりに話しを整理してみよう。


@
出勤している職員3名×8時間=出勤している職員の勤務時間数の合計は24時間ってことになる。

A
これはグループホームの人員配置基準を満たしていることになる(法令を順守しているってこと)。

B
と、なるとこの応募してくれた人が以前働いていたグループホームは特段人手が少ないってわけじゃない。
法令的には・・・・・。

C
グループホームの人員配置基準で必須とはなっていない調理員がいる。
=食への支援だけに限っていえば、介護員+調理員だから他のグループホームに比べて人手は多い

D
別に3食とも入居者と職員で食事を作っていること(その姿や取り組み)が素晴らしいわけでも何でもない。
=調理員さんが食事を作ってくれることが悪いとかダメだとかってことでもない。

◇◇◇◇◇

さて、ここまでであなたは何を思い、何を考えましたか?

僕が何を思い、何を考えたか?は次回に。


認知症とこの国・・・日本
2007/07/26(木) 02:37:02

「その国の老人を見れば、その国の文化が分かる」

これは、イギリスの元総裁チャーチルの言葉。
チャーチルといえば、わが国の前首相の小泉さんと、今の首相の安部さんが尊敬している政治家だ。

さて、このチャーチルさんの言葉を振り返ってみて、今、日本という国の在りようはどうなのか?

◇◇◇◇◇

「元気にしないで下さい」

うちのデイサービスの職員から聞いた話しだが、以前うちのデイサービスを利用している認知症の状態にある人の家族がこう言ったのだそうだ。

元気になったら自分の意思のままに自由に動き回る。そうなったら片時も目が離せない。
介護サービスは24時間365日という道筋の中、点・点・点・・・・・としか入れられない。残りは家族で支えるしかない。
自分の生きる時間を投げ出し、とにかく相手のために時間を使い、身も心もボロボロになっていく。

今、介護の業界(いや厚労省や自治体かな?)では「地域」が流行文句。自宅ケアをしている家族や自宅で生活している本人を地域で支える仕組みを作るために。

でも昔、隣り近所が支えあっていた長屋を今はほとんど見かけないことからも分かるように、地域は壊れている(特に都市部は)。

◇◇◇◇◇

2015年には、高齢者の4人に1人が認知症の状態になるそうだ。
でも今この国は、認知症の状態になっても「元気で生きている」ことを素直に喜ぶことができない。

2015年まで残り8年・・・・・。
もう待ったなしの状態である。

政治家や官僚、行政、本人を間近で支えている専門職や家族、医療者や看護職、そして一般の人たちも、み〜んなが、今自分にできることをやっていかなければ2015年、4人に1人になってからでは遅いのだ。

◇◇◇◇◇

認知症の状態になったら「元気で生きている」ことを喜ぶことができない国、日本。
今一度、チャーチルさんの言葉を思い出そう。

「その国の老人を見れば、その国の文化が分かる」

少子高齢化問題を抱えている国、日本の在りようが問われている。


美語・・・・・、心・思い・愛
2007/07/13(金) 04:02:06

介護の業界では「寄り添うケア」というものがあるらしい。
僕は介護業界14年生だが、いまだにこの「寄り添うケア」の意味が理解できない。

広辞苑で調べてみると「寄り添う」とは「ぴったりとそばへ寄る」という言葉の意味を持っているそうで、「ケア」は「介護。世話」。
となると、言葉の持つ意味で「寄り添うケア」を解釈すると「寄り添うケア」とは「ぴったりとそばへ寄って世話をする」ってことになる。

おいおい「寄り添うケア」っていうのは、ずっと婆ちゃんから離れず張り付いているのか???
人間、どんなに愛している人と一緒にいたって一人になりたい時もあるだろうし、放っておいて欲しい時だってある。

それが赤の他人の介護職員にずっと張り付かれていたら婆ちゃんたちはうんざりするだろう。
きっと・・・・・・・。
僕なら絶対・・・・・・・。

そんな言葉の意味を持つ「寄り添うケア」。
言葉の意味だけで解釈したらそんな介護になる「寄り添うケア」。
「寄り添うケア」ってものが存在するなら「寄り添わないケア」があってもいいよなぁ。

◆◆◆◆◆

きっと「寄り添うケア」っていうのは体をぴったり張り付けるとか、そんなケアを表現したものではないのだろう(恐らく)。

一昔前ひどい扱いを受けていた認知症の婆ちゃんたちへの懺悔、そんな扱いをしていた介護職員の反省、そこを踏まえて、認知症の婆ちゃんたちと心を通わせ、「思い」を持って介護職員は認知症の婆ちゃんたちにケアしようってところだろう(恐らく)。

でもだとしたら、法人や会社、施設や事業所のトップに「寄り添うケア」をしなさいとか「寄り添うケア」の実現を目指せって言われたら、現場の職員たちはどんな仕事(介護)をしていったらいいのだろう。

よっぽど言葉の意味通りの方がわかりやすい。
ぴったりと張り付いていればいいのだから・・・・・・・。

◆◆◆◆◆

「心」とか「思い」、ましてや「愛」なんてものをキーワードにされて仕事(介護)を語られたり、指導や教育をされると “言葉の響き” はいいから、なんとな〜く、ほわ〜んと気持ち良くはなる。

でも実際のところは抽象的でよく分からない。

◆◆◆◆◆

認知症の状態は、いつ、どこで、どんなふうに人として生きること(生活すること)に支障が出るかわからない。

そこに向き合い、七転八倒し、身も心もボロボロになっている多くの介護職員に「あなたのするべき仕事(介護)は・・・・・、あなたが仕事(介護)をする上で大切にすることは・・・・・」を伝えるキーワードが、心・思い・愛という抽象的で本質の分かりにくいものでいいのだろうか?

寄り添う、その人らしく、グループホームケア・・・・・、この業界、結構響きのいい言葉がたくさんある。
でもどれもが僕からしたら「よくわかんねぇ」だ。

◆◆◆◆◆

響きのいい美語のもと、心・思い・愛とかをキーワードにして、仕事(介護)を曖昧にするのはそろそろ止めにして、自分たちの仕事(介護)を考え、語り合い、学んでいこうじゃないか。

妙に冷めたところがある僕はそう思っている。

まぁ、冷めたところがあるから、心・思い・愛とかをキーワードにできないとも言えるけど・・・・・・・。


仕事をしよう
2007/07/06(金) 03:02:42

先日、とある“専門職”の研修会で受講生の方からこんな質問を受けた。

受講生の方>>>>>
「うちのホームで徘徊が激しい人がいます。何回も外に出ようとして困っています。どうしたらいいですか?」

梅本>>>>>
「何に困っているんですか?」

受講生の方>>>>>
「外に出ようとすることです」

梅本>>>>>
「で、どうだったらいいなぁって思っているんですか?」

受講生の方>>>>>
「できれば外に出ないようになったらいいんですが・・・・・」

梅本>>>>>
「だったら簡単な方法がありますよ」

受講生の方>>>>>
「えっどんな方法ですか?」

梅本>>>>>
「出入口に鍵をして出られないようにしちゃえばいいんですよ。それでもこじ開けて出ようとするなら、ベッドでもイスでも何でもいいから縛っちゃえばいい。そうすれば動けないから絶対外には出ない。これで完璧!!」

受講生の方は「そんなことはできません」って言ってきた。

そりゃそうだ。

◆◆◆◆◆

だけど、そうは言っても、この質問してきた方は「外に出ようとすることに困っている」って言っていた。
何で外に出ようとするのか?は考えていない。

更に「できたら外に出ないようになったらいい」と思っている。
どうやったらできる限り(少しでも)外に出てもいいようにできるか?は考えていない。

はなから、認知症だから徘徊をし、認知症だから外に出たら危ないetc・・・・・と捉え、その外に出ようとする人を見ている。

確かに認知症は疾病等が原因となって脳の器質性病変をもたらし、記憶や認知といった機能に障害をもってしまう病気だ。

でも何にも分からなくなったわけでも、何にもできなくなってしまったわけでもない。
まだまだ、その人それぞれに存分に発揮できる機能や能力があるのだ。

でも「認知症だから・・・・・」という目でばかり認知症の状態にある人を見ていたら、その人が持っている機能や能力に気づくことはないだろう。
何せ「認知症=何も分からない、何もできない」なのだから・・・・・。

◆◆◆◆◆

「オムツになったから、今いるグループホームから退居してくれと言われた」
「車椅子になったから・・・・・」
「食事作りができなくなったから・・・・・」

ことグループホームでいうと、こんな話しをよく聞き、こんな話しをしてくれる家族に相談を受ける。
「これからどうすればいいのか・・・・・」と。

最近聞いた話しでは、介護保険法では、要支援2、要介護1〜5までの方がグループホームを利用できるとなっているにもかかわらず、入居できる要介護度をホームの都合で設定しているグループホームがあるというから驚いた。

介護保険の指定を受け、介護報酬という公金を受給しているのであれば、こんな事実はお話しにならない。

さっきの認知症の人が外に出ようとして困るという話しもそうだし、オムツだの、車椅子だの、受け入れる要介護度を設定しているだの、どれもこれも“専門職”としての自分の仕事が分かっていない。

(社会福祉法「福祉サービスの基本的理念」)
(介護保険法「目的」)
(介護保険法 各事業「基本方針」)

有する能力に応じ、自立した日常生活を営むことができるよう支援する

これが僕たち専門職の仕事なのだ。

だけど悲しいことにどの話しも、有する能力に応じていない。
専門職として仕事をしていないのだ。

有する能力に応じるために、自分たちは専門職として何を学び、何を自分の力(専門性)とするのか。
そして有する能力に応じるために何を考え、何をするのか。

専門職のみなさん、
仕事をしよう。

◆◆◆◆◆

「仕事」
する事。しなくてはならない事。特に職業・業務を指す。
(広辞苑より)


普通の状態ではない・・・
2007/06/12(火) 01:50:00

前回の話しから見えること。
普通の人だと思うこと = 尊厳を大切にするということ。

このことから僕が思うこと。
尊厳を大切にするために認知症の人を普通の人だと思い、認知症の状態だからといってそこに差別があってはいけないと「普通の状態」の人と同じように向き合い支援する。
それって“専門職”として間違っていないだろうか?

認知症の状態にある人に普通の状態にある人と同じように向き合い、支援するのであれば、そこに専門的な知識や技術etc・・・そぉ専門性なんてものは何一つ必要ない。

必要なのは、優しさと献身的な姿勢だけ。

それはすなわち、認知症の状態にある人への支援は優しさと献身的な姿勢を持っていれば誰でもできることで、専門職なんていらないということになるんじゃないだろうか。

◇◇◇◇◇

ひと昔前・・・・・・・・

認知症の人=何も分からない、できない人
⇒だから人間として終わっているのだから人様の迷惑にならないようにしておけばいい

いいやそれは間違っている。

認知症の人=普通の人(尊厳を大切に)
⇒だから人間として大切にし、優しく、献身的に向き合い、支援する(何でもやってあげる)ことが大事なんだ

これが今・・・・・・・・

本当にこれでいいのだろうか?

◇◇◇◇◇

専門職であるならば「認知症の状態にある」ことと「尊厳」をごちゃ混ぜにして捉え、更にはその視点から仕事(支援)していていいとは僕は思えない。

認知症の状態である = 普通の状態ではない

そのことを“正しく”捉え、その上で“人”としてどう生きてもらうか?
そのために専門職としてどんな専門性(知識や技術etc)を発揮していけばいいのか?

それを考えた時、僕が今の時点でできる仕事(支援)は、優しさと献身的な姿勢で認知症の状態にある人に向き合い支援する(何でもやってあげる)ことには結びつかない。

◇◇◇◇◇

認知症の状態である = 普通の状態ではない

認知症の状態にある人に、人として生きてもらうために・・・、
それを応援(支援)していくために・・・、
今後も僕はこのことを“正しく”捉えていくつもりだ。

このことを差別的だと言う人もいるだろう。

でも僕からすれば、認知症の状態にある人への向き合い方や支援について語るとき、やたらと「愛」だの「尊厳」だのが大事だと言う輩のほうが、認知症の状態にある人の尊厳や人としての生き方を無視しているように思えてしょうがない。


普通の人
2007/05/09(水) 00:36:41

うちのグループホームに入居しているHさん。
1ヶ月前に転倒し、大腿骨頚部骨折してしまった。

手術は無事に成功。
長期入院は本人にデメリットが多すぎると判断した現場職員たちは、早々にHさんを迎えに行き、Hさんはホームに帰ってきた。
その後は抜糸も済み、今は少しずつではあるが、完全にはひいていない痛みと戦いながら、立ち上がりや歩くこともできるようになってきた。

そんなHさんは認知症の状態。
近時記憶に障害があり、自分の足がなぜ痛いのか?を覚えていない。いられない。

ある日の昼食後・・・・・、そのHさんが食事を終え、ダラ〜としていると、とある新人職員がHさんに突然こんな声掛けをしてきた。

◇◇◇◇◇

とある新人職員>>>
(すごく丁寧に、かつ笑顔で・・・)
「Hさん良かったですねぇ。痛みもずいぶんなくなってきて・・・」

Hさん>>>
「えっ!?。あ〜そういえば私、左足が痛いんですよ。でもどうして痛くなったのかしら?」

とある新人職員>>>
(すごく丁寧に、かつ笑顔で・・・)
「3週間前に転倒して骨折されたんですよ」

Hさん>>>
「えっ!?。私転んで骨を折っちゃったんですか?」
(かなり表情が曇ってきた・・・)

とある新人職員>>>
(すごく丁寧に、かつ笑顔で・・・)
「そうなんです。でも大丈夫ですよ。すぐに救急車で運んで、緊急手術して、もう足の方は治っていますから・・・」

Hさん>>>
「えぇ!!??。救急車で?・・・、手術?・・・ですか?」

とある新人職員>>>
「大丈夫ですよ。手術は無事成功したので痛みも少しずつひいていきますから」

最後に丁寧に、かつ笑顔でそう語りかけ、その場を去っていく、とある新人職員。

Hさんはというと・・・・・、
表情は困惑、不安を募らせ、ありとあらゆる人に「どうして私の足は痛いんですか??」と何度も何度も問い掛け続けている。

こんなHさんのところに認定調査員が現れたら「不穏有」ってチェックされてしまうだろう。

◇◇◇◇◇

後日、この、とある新人職員に僕はこう聞いてみた。
「あなたは認知症の状態にある人に向き合う時、どんなことを大事にしているの??」

とある新人職員は、こう答えてきた。
「“普通の人”だと私は思っているので、それを大事にして私は向き合っています」

◇◇◇◇◇

さて、あなたは、これを読んでどう考えますか?

この続きは次回に。


あの時の言葉・・・
2007/05/03(木) 00:36:29

僕は13年前、身体障害者療護施設に介護員(その当時は寮父)として勤務していたんだけど、その当時の僕は、テキパキと早く食事・排泄・入浴の介護をすることが「仕事のできる奴」だと思っていた。

なので、常に頭にあるのは「どうやったら早くオムツ交換が終わるのか?」という探究心でいっぱい。
同僚とも、常に「テキパキ早く」の研究に没頭し、そのことをお互いに情報交換していた。

◇◇◇◇◇

そんな同僚たちと夜勤を2人1組でやる時は大変だ。
何せ、テキパキ早くで「負けるわけにはいかない」から。

やや回廊式になっている施設の建物。
夜勤のオムツ交換は、回廊の廊下の真ん中から「(互いの心の中で)よ〜いドン!!」で始まる。

もうとにかく必死。
1人でも多く相棒よりもオムツ交換しなきゃいけない。
そぉ、負けるわけにはいかないから・・・・・。

◇◇◇◇◇

タイムスケジュールとして決まっている時間内に自分に振られている仕事を終わらせる。
これも「テキパキ早く」の目的。

その目的さえ果たせれば、僕は「仕事のできる奴」なのだから、タイムスケジュールで決まっている自分の“業務”しか僕はしない。
決まっていないこと以外のことは「テキパキ早く」の邪魔になるから。

◇◇◇◇◇

「テキパキ早く」を自分の価値観にしていた13年前の僕。

夜勤で競い合っている時も、タイムスケジュールで決まっている“業務”しかしない時も、そこに入居者や利用者は人として存在しない。
「テキパキ早く」に入居者や利用者の人としての存在は邪魔なだけなのだ。

◇◇◇◇◇

そんな13年前の僕の前に現れたSさん。

ある日、廊下ですれ違った僕にSさんはこう言ってきた。

Sさん>>>>>
「おしっこしたいんだけど・・・」

梅 本>>>>>
「えっ!?オムツしてるんだからオムツの中にしていいよ。今は排泄介助の時間じゃないから、排泄介助の時間になったら取り替えてあげるから・・・」

そう言い放ち、その場を去ろうとした僕の背中ごしに、Sさんはこう言った。

『私はトイレでおしっこがしたいのに・・・』

この時、それまでの「テキパキ早く」という価値観が、僕の中でこっぱみじんに破壊された。

◇◇◇◇◇

13年前、僕が介護という仕事をしていく上で大切なことを気付かせてくれた。そして変えてくれた。



あの時の言葉・・・・・。

それは『私はトイレでおしっこがしたいのに・・・』

だったんだ。


みんなが 「認知症」 に走るので・・・
2007/04/30(月) 23:30:16

10年前、僕は座敷牢のようなところに閉じ込められ、死んだ目をした認知症の人たちをたくさん見た。

その頃に比べると2007年のいま、認知症の人たちへの支援や捉えられ方は、これで満足&満点とはいかないが、明らかに改善し向上してきている。

これも、認知症の人たち本人が勇気を持って大衆に向け発言したり、周りに何を言われようと家族の方達が事実や本当のところを伝えてきた成果だ。

僕たち専門職の先輩達も、あまりにひどい扱いを受ける認知症の人たちを目にし「これでいいわけない」「今までの支援は間違いだったんだ」と必死に支援の向上を目指してきてくれた。

◇◇◇◇◇

そしていま、「認知症」は注目されている。

誰もが患う可能性のある認知症・・・。

それだけに、これからは認知症の人たちが「街の中で安心して暮らせるように」がキーワードとなって、色んな動きが出てくるだろう。

これは10年前の光景が今も目に焼きついている僕にとって嬉しいことだ。

でも最近、ひねくれ者の僕はこんなことを思う。

◇◇◇◇◇

脳の器質性病変である認知症・・・。
だからだろうか、介護(支援)の専門職の中で「脳(認知症)」を語りたがる人が多いのだ。

確かに認知症の人を支援する上で、認知症という病気を知り、理解することは大事なことだ。
自分の目の前に登場した人が患っている病気(認知症)も知らず、理解もせず適切な支援ができるわけないのだから・・・。

でも、だからといって「脳(認知症)」に走ってどうするの???
僕ら介護(支援)の専門職は「脳」の中をいじくり回せるわけじゃないでしょ。

◇◇◇◇◇

更に思うのが、言い方が悪いが、認知症も人間にとっては数多くある病気や障害の中のひとつに過ぎない。
僕らが支援を差しのべる人たちが持っている病気や障害は、認知症だけじゃない。
あれもある・・・、これもあるのだ。

病気や障害だけじゃない。

その人のこれまでの人生、これからの人生、性格や思い、嗜好や趣味、好きなこと(人や物)、嫌いなこと(人や物)、その人に影響を与える人間や環境、さらに今も持っている機能や能力、今は上手く出せない機能や能力 etc

・・・・・・・・・・・・・・・「人」っていうのはたくさんあるのだ。

◇◇◇◇◇

と、いうことで、僕は今もこれからも、“認知症の人”を支援する専門職として、勝手にこう宣言します。

◆◆◆◆◆

『みんなが「認知症」に走るので、僕は「人」に走ります』

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