・グループホームなるとう 施設長の小言です。 不定期更新です。
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行動の保障 〜その3〜
2008/02/19(火) 01:36:03


 認知症の状態にある人は認知症の状態であっても、僕たちと同じ日本という国に生きる人であり、それは僕たちと同じ日本国民ということだ。

 そして、日本国民誰しもに守られるべきであり、日本国民誰しもが守るべきものが日本国憲法だ。

 その日本国憲法には『国民の権利及び義務』という下りが第三章にある。
 そこには、基本的人権の享有と性質、自由・権利の保持義務、個人の尊重・生命・自由・幸福追求の尊重、法の下の平等、奴隷的拘束及び苦役からの自由、生存権・国の生存権保障義務・・・・・などが記されている。

◆◇◆◇◆◇◆◇

 しかし悲しいことにこの国においては、僕たちと同じ日本国民であるにもかかわらず認知症の状態にあるというだけで、この「国民の権利及び義務」というものがどこかに置き忘れらてしまう。

 置き忘れられている証拠に、多くの認知症の状態にある人が利用する介護保険制度を定めている介護保険法には、「緊急やむを得ない場合を除き、身体的拘束等を行ってはならない」とわざわざ身体拘束禁止を規定している。

 これは、これまでの介護の実践の歴史や現在の介護の実践の到達点を踏まえたものであり、未だに認知症の状態にある人たちに対する僕たち専門職や多くの国民の意識や考えが、認知症であるというだけで自分たちとは同じ国民ではなくなり、「特別な人」「困った人」「大変な人」、果ては「ばかげたことをする人」などとなってしまい、認知症の状態にある人たちに対する「国民の権利及び義務」が置き忘れらていることの証ではないだろうか。

◆◇◆◇◆◇◆◇

 施錠について語り合ったり、考えたりするとき、この「国民の権利及び義務」に記された全ての文言に「認知症の状態にある人は除く」と書かれていないことを、常に頭の片隅に置いておく必要がある。
 頭の片隅に置いてあれば、「施錠は当たり前」ととんでもない認識をしたり、「仕方がない」と施錠を解くことを諦めてしまうのではなく、「施錠はしたくない」と思い「何か手立てはないか」と施錠を解くことが前提で語り合い、考え合うことが当たり前になるからだ。

◆◇◆◇◆◇◆◇

 現実的にいっさい施錠しないなんてことは、今の社会システムや介護保険制度というシステムでは無理だと僕は思っている。

 でも、無理だと諦めず、認知症の状態にある人たちに対し、施錠する・するしかない・してしまう・という事実が、少しでもこの世の中から消えていくための実践を僕たち専門職は積み重ねていきたい。

 施錠という事実の多くを生み出しているのは僕たち専門職、だったらそれを無くしていくのもまた、僕たち専門職しかいないのだという自覚を持って・・・・・。

(次回へ続く)


行動の保障 〜その2〜
2008/02/11(月) 22:58:12

 僕は10年前、特別養護老人ホームの生活相談員をしていた。
 その当時、我が特養に入居する多くの婆ちゃんたちに入居前面接をするために、婆ちゃんがいる自宅・老健・病院とあっちこっちに会いに行ったのだが、ある日、認知症の状態にある人の面接のため、とある精神科の病院に行った。

◆◇◆◇◆◇◆◇

 「Aさんはこちらの奥の部屋にいます」

 僕を案内してくれる看護師さん。
 案内されるまま後をついていくと、鉄製のドアに行く手を阻まれた。

 ジャラジャラジャラ  ― 。
 
 その音は、看護師さんの腰に付いたたくさんの鍵を、看護師さんがいじっている音だった。そんなたくさんある鍵の中から一本の鍵を手に取り、看護師は鉄製のドアを開けた。

 ガチャーンという音とともにドアが開くと、その奥に部屋がある。

◆◇◆◇◆◇◆◇

 「この部屋の中にAさんはいます」

 看護師さんがドアを開くと、そこは畳15畳はあろうかという大部屋。ふと目をその部屋の窓に向けると、窓には鉄格子があった。
 畳はおしっこやうんちを何度も拭いたであろうという後があり、そんな畳の上に認知症の状態にある人が10人ぐらいいた。

 畳に横たわっている人 ― 。
 四つん這いになって部屋中をうろうろしている人 ― 。
 壁をじーっと見つめている人 ― 。
 「あー、あー」とずーっと唸っている人 ― 。

 とても人間のいる場所なんかじゃない。
 そして家畜同然の扱いだ。

◆◇◆◇◆◇◆◇

 僕はAさんに「こんにちは」と声をかけた。
 ぼーっとした表情で僕をじっと見つめるAさん。

 色々と話しかけていると、Aさんが手を差し出してきたので、僕はその手を握り返し、話しかけ続けていたのだが、しばらくすると、Aさんの目から涙がこぼれ、ろれつの回らない口調で、僕には意味が理解できない言葉を何度も僕に語りかけてきた。

 面接を終え、看護師さんが出口まで案内をしてくれた。出口は入口とは別の場所にあるため、来たときとは別のルートを通っていくのだそうだ。
 その途中、いくつかの個室があった。その個室にはベッドに手足を縛られ、ぼーっと天井を見つめている(しかない)人たちがいた。
 看護師さんの話しでは、大部屋では他者に暴力を振るってしまう人や、鉄製のドアを破ってでも外に出ていこうとする人などが、この個室に収容されるのだそうだ。

 これは全て僕が過去に目撃した光景であり、その光景はたった “10年前” のことなのだ。

◆◇◆◇◆◇◆◇

 中央法規さんが出版している「りんくる」という雑誌に、「レンズの向こう側」というコーナーがある。
 そこには、田邊順一さんという方が写真に収めた20年以上前の認知症の状態にある人たちの姿が写し出されている。

 僕が一番衝撃を受けた写真は、昭和59年に撮影したという「何もない部屋に一組の布団と床にぽっかりと開いた便所の穴」の写真。
 これは当時、認知症の状態にある人の静養室だったのだそうだ。
 その写真に写し出されているものは、僕が直接目撃していない認知症の状態にある人たちの過去であり、僕と同じ専門職の先輩たちが当時到達していた実践の歴史だ。

 僕は回廊式廊下のある施設で働いていたので、その廊下を一日中歩き回っている(歩き回されている)認知症の状態にある人たちの姿を見てきた。
 つなぎ服を着させられている人たちの姿も見てきた。
 回廊式廊下も、つなぎ服も、当時の専門職の実践の到達点であり、最新だったのだ。国も推奨し、回廊式廊下に至っては、数多くの特養に作らせていた。

◆◇◆◇◆◇◆◇

 今、僕が勤めている職場に新卒で就職してきた20代の子たちは、恐らく、つなぎ服を着させられ、回廊式廊下を歩き回っている(歩き回されている)認知症の状態にある人の姿を見たことがないだろう。

 これは喜ぶべきことだ。

 見たことがない。

 それは僕と同じ専門職の先人たちが過ちに気付き、日々実践を積み重ね、改善してきた証であり、今の実践を担っている僕たち専門職への教えでもあるのだ。



 でも、自分の目で目撃していなくても、そんな過去や歴史があったことは知らなければいけない。認知症の状態にある人たちにとっての暗黒の時代を・・・・・。

 そのことを踏まえ、「施錠」についてだけでなく、「認知症の状態にある人たちの生きる姿」を、「その生きるを応援する支援のあり方」を、今を、そして次代を担う専門職が考えていかなければ、また僕たち専門職は、認知症の状態にある人たちを暗黒の時代に招き入れてしまいかねない。

 今を、そして次代を担う専門職の皆さん、先人たちの教えを無駄にしないためにも、今に至った過去や歴史を知り、同じ専門職の人たちへ、いや専門職だけではない多くの日本人のみなさんへ、あなたが知ったことを伝えていこうではないか。

 僕もそのために、今の自分にできることに精一杯尽力したいと思う。

(次回へ続く)


行動の保障 〜その1〜
2008/01/17(木) 04:16:15

 今から約1ヶ月前のことだが、うちのグループホームに入居している婆ちゃんが単独外出し、行方不明になった。

 21時10分 スタッフは婆ちゃんが部屋で寝ているのを確認。
 21時20分 再びスタッフが様子を確認しに行くと、部屋に婆ちゃんがいない。
 
 たった10分間のことだが、婆ちゃんの姿は忽然とホームから消えていた。
 この婆ちゃん、うちのホームに入居してまだ1週間。スタッフもまだまだこの婆ちゃんのおおよその行動パターンなどを掴みきれていなかった。故に眠りについたばかりで、もしかしたら起きて何か行動に移るからもしれないとスタッフは考え、眠りついた場面では10分おきに様子を伺いに行っていたのだが・・・・・。

 一晩中、スタッフ総出で捜索活動。警察にも捜索を依頼し、警察犬までもが捜索に力を貸してくれたが、見つからない。そして朝になった。

 翌日の朝10時過ぎ。とある工事関係者の方からホームに一本の電話。
 その電話は「様子がへんなので声をかけたがよく分からないことを言っているので、これはおかしいと思ったら、洋服の首筋に ※電話番号が貼りついていたので、電話したらそちらにつながった」との内容。

(※この婆ちゃんは1日中、何度も外に出掛けようとする方だったので、スタッフがいざという時のために電話番号が書かれた布を貼り付けていた)
 
 無事だったぁ。
 スタッフは安堵感に包まれ、うちの婆ちゃんを保護してくれた方の電話の声が神様の声に思えた。もちろん僕も。

 この婆ちゃんが保護された場所は四街道市内にある、四街道インターチェンジのそば。うちのホームからだと10キロ以上は離れている場所だ。電話をくれた方は、朝からそこで工事のための測量をしたいたのだそうだ。
 婆ちゃんはというと、途中転んだのか、左手にすり傷と、左目の下が腫れていたが大怪我などはしていなかった。歩き疲れたのか、元気はなかったが、ホームに戻り、病院に行った後は、また外に出掛けようとするまでに元気になっていた。

 それにしても10分という間で、この婆ちゃんどこからいなくったのだろう?

 振り返ると、部屋の(外に通じる)窓は開けた痕跡がなかった。玄関は、すでに夜間帯で現場には夜勤スタッフ1名しかいない+防犯対策のため鍵が閉まっていた。
 その他も本人が(窓枠を乗り越えたりなど)頑張れば外に出られるという箇所は鍵が閉まっていた(まあ鍵といっても玄関以外の箇所は開けようと思えば簡単に開けられるのだが・・・・・)。
 
 そんな中、談話室からベランダに出られる窓だけが、閉めたはずの鍵が開いていた。どうやらこの婆ちゃん、そこから外に出ていったようだ。

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 さて、こんなことが現場で起きると、やっぱり避けては通れないのが「施錠」の有無について。みなさんは施錠についてどんな考えを持っていますか?。

 安全をとるか、自由をとるか。
 続きは次回に。
 それまでみなさんも、じっくり施錠について考えてみて下さい。


本分とビジョン
2008/01/10(木) 04:24:26

 新年を迎え、気がつけば平成も20年。今年は、昭和という時代が終わりを告げ、20年目という区切りの年でもある。

 僕は昭和という時代を49年〜64年(64年はたった7日しかないが)の15年間しか知らない。15年といっても最初はオギャーと生まれた赤ん坊だったので、記憶に残っている年数はもっと短い。
 
 でも、昭和が終わった日、1月7日のことは中学3年だったのでよく覚えている。
 昭和天皇が亡くなったことが分かると、テレビからドラマやバラエティー、音楽その他何もかもが放送されることはなく、コマーシャルも画面から消え、日本中が喪に服していた。
 時間の流れが止まってしまったかのような印象を受けたのを覚えている。

◆◇◆◇◆◇◆◇

 あれから20年。西暦も変わり、時は21世紀。時間が止まったかのように感じた20年前の1月7日からは想像もできないほど、時間が流れていくのが早い(僕はだが・・・)。
 時間というのはやっかいなもので、こっちがいくら「待ってくれ」と頼んでも待ってはくれない。こっちの都合なんてお構いなしに先に進んでしまう。

 でもそう感じるのは人として生きている証拠だ。人として生きているからこそ時間が進んでいくことを感じるし、感じるということは無事に今日を迎えたということだ。もしかしたら時間が進むことを感じなくなり、明日を迎えることがないかもしれない。人間なんだから、いつそんな時を迎えてもおかしくはない。病気でなくても、事故や天災によってってこともある。

 それだけに、「まっ明日でいいや」はできるだけ避けたいと思う。生きていれば辛いことや苦しいことはたくさんあるし、くじけてしまうことだってある。この業界の現状からすると、こと仕事でいえばそんなことなんて日常茶飯事ともいえる。
 でも、明日があるかなんて保障はどこにもない。だからこそ、今日やれることを今日一生懸命にやりたい。後悔しないためにも。
 そんなことがどこまで、いつまでできるかは全く自信はないが・・・・・・・・・・。

◆◇◆◇◆◇◆◇

 今年の干支は子年。
 子丑寅・・・・・・の12支の始まりの年だ。更に、仕事絡みでいえば、来年の春には介護保険の報酬単価の改正も控えている大事な(勝負の)年でもある。
 始まりでもあり、大事な(勝負の)年でもあるこの平成20年は、今日できることを今日一生懸命にやる年にしたい。
 
 何を一生懸命にやるのか?
 それは元旦の深夜に放送されていた番組で、昨年他界された瀬島龍三という人が番組を見ている若者に向けて送ったメッセージだ。

 「“本分”を守り続け、かつ努力する」
 
 「将来にビジョンを持って、それに対して全力をかけて努力する」
 
 これである。

◆◇◆◇◆◇◆◇

 最後になりましたが・・・・・・・・・・

 みなさん HAPPY NEW YEAR 今年もよろしくお願いします・・・・・ね。


変化する、壊れる、死を迎える・・・それが人
2007/12/27(木) 21:22:21

 2007年11月20日 
 うちのグループホームに入居していたYさん(男性)が天国に逝った。
 75才。末期の胃ガン・・・・・。

 入居してからちょうど丸7年、8年目の秋を迎えようとしていた。

◆◇◆◇◆◇◆

 10月、検査結果を御家族(義理のお兄さん)と、うちのスタッフと一緒に聞きにいった。

 診察室に入ると、そこにはCTで撮影されたYさんの胃の写真があった。
 その胃は、医者ではない素人の僕でも、一目でガンだと分かるほど真っ白になっていた。僕はYさんの最近の様子から「恐らくガンではないか?」と思ってはいたのだが、CTで撮影されたYさんのガンで真っ白になった胃を見たときは思っていたことが現実となり、さすがにショックだった。

 ドクターからは、「転移もあり、手術でどうにかなる状態ではない」と告げられ、余命は長くて3ヶ月と宣告された。

 その宣告後、僕とうちのスタッフは、今のYさんの状態をドクターに伝えた。
 食事は食べられなくなってきているけど、まだ歩ける、まだ慣れ親しんだ商店街にフラッと出掛けている、本数はすごく減ったけど、まだタバコを楽しみに吸っている・・・・・と。

 義理のお兄さんも「リブに馴染んで7年も暮らしてきましたからねぇ・・・。あいつにはリブが一番居心地がいいんでしょうねぇ・・・」とつぶやいた。

 そんな僕たちや義理のお兄さんの言葉をじっと聞いてくれていたドクター。
 僕たちの話しが終わると、「即、入院することもできます。もし入院が長くなっても、うちの病院には療養型もあるので心配はありません。でも今はまだそんな風に暮らしているなら、少しでもその暮らしを続けさせてあげることが大切ではないでしょうか」

 そしてこんなことも言ってくれた。

 「施設さんが踏ん張ってくれるというのなら、Yさんの残りの時間を考えて、Yさんにとって一番暮らしやすい場所で生活してもらうというのが私は一番いいと思います。
 こんなことを言うのは大変申し訳ないのですが・・・・・、残された最後の時間を大切にしましょう」
 

 こうしてYさんは、亡くなる当日の朝倒れるまでリブで暮らし、最後を迎えた。

◆◇◆◇◆◇◆

 Yさんが末期ガンと宣告されてから亡くなるまでには色々なことがあったのだが、そのことはまた別の機会で伝えたい。
 
 今回は、Yさんの件を通して改めて感じたことを書こうと思う。

人は変化する
 人はオギャーとお母ちゃんから生まれてから人生を終えるまで変化し続ける。特に生まれてから生きるために必要な機能や能力、知識etcを身につけるまでと、年をとり、いったん身につけた機能や能力、知識etcが衰えていくまでは変化が著しく現れ、これをこの業界では経年変化と呼んでいる。
 さらに、認知症の状態にある人の中で、アルツハイマー病やレビー小体病などの変性疾患が認知症の状態となる原因疾患となっている場合は、進行性であるがために認知症の状態も変化していく。

人は壊れる
 人はケガをしたり、病気を患ったりする。これは体のどこかが壊れるということだ。そして人は壊れると壊れたところを修理する。病院に行って治療したり、自分で薬を買ったりして。
 でも人は壊れても、修理がきかない場合もある。

人は死を迎える
 どんな人でもいつかは死を迎える。それが人が生きる道なのだ。

◆◇◆◇◆◇◆
 
 人が生きることを支援し、それを生業としている僕たち専門職は、人は変化する・壊れる・死を迎えるということを忘れてはいけない。

 どんなに元気ピンピンで自分の前に現れた婆ちゃんであっても、変化し、壊れ、死を迎えるのだ。
 このことを忘れると、その婆ちゃんが変化したり、壊れたり、死が近づいていることを知ってしまったとき、「有する能力に応じ、自立した日常生活を営むことを支援する」という専門職としての仕事をせず、ただ慌てふためいたり、へたをすると「自分たちには支援できない」といって自分たちの前からその婆ちゃんを追い出したりしてしまう。

 また、建物の設計を考えるときや設備・備品を揃えるときにも、人は変化する・壊れる・死を迎えるということを念頭に置いておく必要がある。
 そうでないと、婆ちゃんがいざ変化し、壊れ、死が近づいたとき、ハードが障害となって僕たち専門職が仕事ができなくなってしまったり、今度はハードを理由に婆ちゃんを追い出したりする。

 医療や看護との連携においても同じ。人は変化する・壊れる・死を迎えるということを踏まえ、いざその時にサポートしてくれる医療や看護を変化する前・壊れる前・死を迎える前にコーディネートしておくことが大事だ。

◆◇◆◇◆◇◆

 「変化する、壊れる、死を迎える・・・それが人」であること。
 そして自分の目の前にいる婆ちゃんが変化したり、壊れたり、死が近づいたとき、逃げず、投げ出さず、専門職として自分に何ができるのかを考えること、知恵を絞り、手立てを打つことが仕事であること。

 それが今回のYさんの件をとおして僕が感じたことである。


本流支援に向けた大変革へ
2007/12/19(水) 23:17:09

11月28日に参議院を通過した介護福祉士法を一部改正する法案。
今回は、この改正案の中で気になる点があったところを紹介したい。

◆◇◆◇◆◇◆◇

「定義規定の見直し」

<現行>                                                               専門的知識・技術をもって、入浴、排せつ、食事その他の介護等を行うことを業とする者

<改正案>
専門的知識・技術をもって、心身の状況に応じた介護等を行うことを業とする者

◆◇◆◇◆◇◆◇

「義務規定の見直し」

<現行>
◆信用失墜行為の禁止
◆秘密保持義務
◆連携
 「医師その他の医療関係者との連携を保たなければならない。」
◆名称の使用制限

<改正案>
◆誠実義務
 「その担当する者が個人の尊厳を保持し、その有する能力及び適性に応じ自立した日常生活を営むことができるよう、常にその者の立場に立って、誠実にその業務を行わなければならない。」

◆信用失墜行為の禁止
◆秘密保持義務

◆連携
 「その担当する者に、認知症であること等の心身の状況その他の状況に応じて、福祉サービス及びこれに関連する保健医療サービスその他のサービスが総合的かつ適切に提供されるよう、福祉サービスを提供する者又は医師その他の保健医療サービスを提供する者その他の関係者との連携を保たなければならない。」

◆資質向上の責務
 「介護を取り巻く環境の変化による業務の内容の変化に適応するため、介護等に関する知識及び技能の向上に努めなければならない。」

◆名称の使用制限

◆◇◆◇◆◇◆◇

 以前にも書いたことがあると思うのだが、介護保険法の目的や社会福祉法の理念には「有する能力に応じ自立した日常生活を営むことができるようにするもの・・・・・」と明記されている。
 更にこの文言は、介護保険法に定められている各事業の基本方針においても明記されている。
 これは、僕たち専門職が仕事をするときに遵守すべき法令、そして僕たち専門職が仕事を成している事業所や施設の目指すべき方向、そのどちらにも同じ文言が明記されているということだ。

 そして今回の介護福祉士法の改正において、この文言が介護福祉士の義務規定の誠実義務として明記された。

 そこに示されたものは、食事・排せつ・入浴その他の介護(だけ)を行うことが支援専門職の仕事ではなく、様々な障害によって自立した日常生活を営めなくなった人たちに対して、営むことができるようにする(維持したり、取り戻す)ことが僕たち支援専門職の仕事であり、果たすべきことだというものだ。
 
 さあ、僕と同じ専門職のあなた、国や行政、職場や上司、同僚を責める前に、自分自身が「専門職として自分が成すべき支援とは」といった基本的なことを突き詰めて考えようじゃないですか。

 現実にめげたり、苦しんだりすることが多いでしょうが、諦めずに追求を!!

 そんなあなたの追求が、お女中さん(何でもやってあげる)介護から、本流支援に向けた大変革につながるのだから・・・・・。

◆◇◆◇◆◇◆◇

「義務」とは・・・自己の立場に応じてしなければならないこと、また、してはならないこと(広辞苑より)


伝える・・・その2 〜整理して文書化〜
2007/10/26(金) 01:23:14

「印象」から作られる「イメージ」

 第一印象で他人を判断する人って結構多いようだ。

 髪型、服装、姿勢、なかには足元を判断材料にすることもあるそうだ。靴がキレイかキタナイかなんて風に。
 それ以外にも話し方、言葉遣い、視線なんてのもある。

 そういう点からすると、僕は先ずもって第一印象が悪く思われる(思われるというかホントに悪いのだが)。
 何せ、人前に出るときでも何でも、服装は普段着(たいていジーパンにTシャツ)で、髪は茶髪のボサボサ。足元はというといつもスニーカー。そして、トドメで姿勢が悪く、言葉遣いも悪い。
 さらに、元来の人見知りも手伝って、ほとんど人の目を見て話せない・・・・・。
どう考えても、第一印象が悪くなって当然なのだが、分かっていながら直せない。

 おかげで第一印象が悪くなり、研修で講師を務めると、受講してくれた方から「言葉遣いと服装」へのご指摘を受けることがある。
 なかにはご丁寧に、研修の主催者へ「あの人は講師として相応しくないのでは?」などといったお叱りの電話がいくこともあるそうだから、ホント僕は第一印象が悪いのだ。

 この第一印象が悪くなると、どうもその後その第一印象で、その人の中での「梅本」という人間のイメージを作られるようだ。
 その証拠に、その後どこかで僕の印象が悪い人と出会うと、必ず敵意剥き出しの視線を送られたりする。

 こんなことも多い。

 僕の第一印象が悪く、そのせいで梅本へのイメージが「何だあいつ」と思っていた人と、その後何かの機会で話し込むことがあったりすると、その人に・・・・・
 「話しをしてみたら、梅本さんってそんなに悪い人じゃないなって思いました」
となんて言われる。そう言われる僕は苦笑・・・・・しかない。

 こんなふうに僕は、自分(の体験)自身を通して、人は印象で自分の中のイメージを作るんだなぁ・・・と実感している。

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

ドクターへのイメージ

 ドクターの印象はあの白衣だ。

 そして僕ら一般人は、あの白衣を見てしまうと、「偉い人だぁ」「怖〜い」というイメージをドクターに対し作り上げ、ドクターの前になると身が縮こまってしまう。

 結果、そのイメージによってドクターに言いたいことが言えなくなってしまうことが多い。

 僕ら支援専門職は、仕事柄、ドクターと接することが多い。
 さらに、婆ちゃんたちの経年変化に伴う疾病などに僕ら支援専門職が応じていくには、ドクター(医療)との関係は欠かすことができない。

 でも、ドクターの印象・・・・・そしてそこから生まれるドクターのイメージ・・・・・があるから、伝えたいことが伝えられないなんてことが多い。
 まあドクターのなかには「あんたせっかちだなぁ」と思ってしまうぐらい早口で、パッパカパッパカと診察を終えてしまう人もいるから、そんなドクターだと余計に伝えたいことが伝えられない。

 ましてやドクターの中には、僕たち支援専門職を下に見ている人もいるから、そんなドクターだとハナから僕たちの話しなんて聞こうともしていないし、「体や病気のことは医者に任せとけばいいんだ」なんて偉そうに言われたら、最初からもっているドクターへのイメージも手伝って、伝えたいことがあったって言えるわけがない。
 そんな時、気持ちはブルー・・・・・もう最悪だ。

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

伝える手段は言葉(言う)だけじゃない

 イメージが手伝って目の前に立つと緊張してしまうドクターとのやりとり。
 緊張していたら、伝えたいことも伝えられない。それは当然で、緊張していると言葉が上手くでない。

 そんな時は、事前に伝えたいことを整理し、文書化しておいたほうがいい。

 そして通院で病院に着いたら、先ずは受付にその文書を手渡し、文書化してきた趣旨やまとめてあるものの概略を説明して「ドクターに渡して、診察前に読んでいただけるように伝えていただけますか?」とお願いする。
 この方法、結構、どこの病院も快く受け入れてくれるし、ドクターも読んでくれる。

 あとは、緊張している気持ちに、ほんのちょっと勇気を持たせて、文書への補足を伝えたり、ドクターからの質問に答えればいい。

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 整理して文書化。
 これは決して言葉(言う)という伝える手段の代わりってだけじゃない。

 自分の口で伝えるときにも整理して文書化してあると、伝えること(言葉)がより明確・正確になる。
 しかも文書化するために“事前”に整理しているから、頭の中も整理ができていて「ドクターとのやりとり準備万端」状態となるのだ。

 より明確・正確。
 婆ちゃんたちが生きることを応援するためにも、医療面で支えてくれるドクターにはこのことを心掛けることを忘れてはいけない。

(次回へ続く)


伝える・・・その1 〜点ではなく線で〜
2007/10/13(土) 01:19:36

 表情に覇気がなくなり、目がボーっとしている婆ちゃん。

 足腰に力が入らなかったり、フラフラだったりするもんだから、立ったり歩いたりしたら確実に転ぶ婆ちゃん。
 それが原因で立てないように歩けないように、あの手この手で動けなくされている婆ちゃん。

 喋ることもできなくなり、ひどい時には口をぽかーっと開けて、ヨダレがたれている婆ちゃん。
 

 医者からもらった薬を飲みすぎて(飲まされすぎて)、こんな状態になってしまっている婆ちゃんが多い。

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 認知症の状態であるがために、トンチンカンな言動がある婆ちゃんたち。
 そのトンチンカンな言動に専門職は困惑する。大変だと大騒ぎし、事故を恐れる。
 そして医者のところに婆ちゃんを連行し、相談いやお願いをする。

 「困っている。なんとかしてほしい」・・・・・と。


 認知症の状態にある人たちのトンチンカンな言動を伝えると、たいてい伝えられた言動に応じて「抗精神病薬」「非定型抗精神病薬」「抗けいれん薬」「抗うつ薬」「抗不安薬」などが処方され、寝ないとなれば「睡眠薬」や「導眠薬」が処方される。

 薬には必ず「副作用」がある。
 さらに、今あげた薬の多くが適切な診断による適切な処方でないと、副作用でボーッとしたり、力が入らなくなったりするからやっかいだ。
 しかも、たくさん飲めば飲むほど、副作用も大きくなるので、大量に飲んでいたり、本当は飲まなくていいのに飲んでいれば、さっき書いた婆ちゃんたちの姿になるのは至極当たり前のことなのだ。

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

点では、婆ちゃんのホントのところが伝わらない

 「どうされましたか?」
 「夜ほとんど寝ないんです」

 「全く寝ないんですか?」
 「たいてい30分おきに起きてきて、目が離せないんです」

 こんなやりとりをすれば、医者は「寝させよう」とする。専門職が、婆ちゃんが夜「寝ない」ことを訴えているのだから当然だ。


 でも、このやりとりは、“夜”のことしか伝えていない。
 昼間はどうしているのだろう?
 もしかしたら、昼間ほとんど寝ているんじゃないだろうか?
 “昼間”ほとんど寝ていれば、“夜”寝れるわけがない。なにせ、睡眠たっぷり!!、元気いっぱい!!だもんなぁ。

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

“点”(限られた場面)ではなく“線”(24時間)で伝える

 医者だけでなく、家族に対してもそうだが、婆ちゃんの生きる姿を伝えるとき、それがあなたが困らされているトンチンカンな言動や夜寝ないことであっても、“点” ではなく “線” で伝えることが大切だ。

 婆ちゃんたちは、僕らと同じように1日24時間を生きている。

 だからこそ、あなたは婆ちゃんが夜寝ないことで困っているかもしれないが、夜(点)だけを伝えるのではなく、朝〜昼間〜夜(線)で婆ちゃんの生きる姿を伝えることが、間違った処方や大量の処方を避け、今の婆ちゃんに正しい適切な処方につながったり、場合によっては薬は必要ないってことにつながる。

 さらに言えば、点ではなく、線で伝えることを心掛けることが、自分たちの支援のあり方(婆ちゃんたちにどう生きてもらっているのか)を気づく機会でもあるのだ。

(次回へつづく)


“しっくり”こないなぁ・・・
2007/10/05(金) 04:01:52

 “しっくり”こない。

 しっくりこない原因は何となく分かっている(つもり)。
要は仕事に対するモチベーションの問題なのだ。

 このモチベーションという奴はやっかいなものだ。
 何せ上がったり、下がったりと安定感がない。それに上げるのはなかなか難しく、上がったとしても維持するのは、なお難しい。

 そんな“しっくり”こない自分を感じながら、「人間っていうのは機能や能力を持っていても、そこに感情や思いってものが伴わないと使わない(使えない)もんだなぁ」と改めて支援について振り返る自分がいる(何でも支援に結びつけてしまうようだ)。

 でも、“しっくり”こなくても、どうしてもやらなきゃいけないことはやっている。ここでも「やらせりゃいいわけじゃない。やらなきゃいけない必然性がないと人間動かないよなぁ」とまた支援について振り返っている。
 呆れるとしかいいようがない。自分のことだけど・・・・・。

◆◆◆◆◆

 それはさておき、人それぞれモチベーションの上げ・下げに影響を及ぼすものは違う。
僕の場合は、「仕事の目的⇒自分のやるべきこと」が見えなくなると、モチベーションは全くといっていいほど上がることはない。

 それと、これは僕に限ったことだけど、
 モチベーションの上げ・下げに・・・・・・・・・・

体調はあまり関係ない
 見た目は常に体調が悪そうに見える僕(良くはないけど・・・)。でも仕事体力は結構ある。
 なので、自分のやるべきことさえ明確になっていれば、かなり無理がきく。まぁ、性格もあって、一度自分のやるべきことが明確になると、とことん突っ走ってしまう性分も手伝っているのだが。


人間関係はあまり関係ない
 この仕事は自分ひとりではできない。どこの職場でも必ず他人がいる。
 他人がいれば、自分とソリが合わなかったり、考え方が違う人間がいても当然のことだ。
 なにせ、生まれも育ちも全てが違う。常に一緒に生活している家族でさえ、時にソリが合わなかったり、考え方が違ったりするのだから、他人であればそれはなおさらだと思う。と、いうか、それが当たり前なのだ。人間それぞれ違うのだから。

 だから僕は、職場で自分とソリが合わなかったり、考え方が違う人がいても、それが当然だと思っているので、「あいつが足を引っ張っている」とか「あいつがいなければ上手くいく」とかは思わない(ようにしている)。
 自分のやるべきことが明確なら、それを実現するためにはどうすればいいのか?を考え、手立て(語り合ってみたり、システムを変えてみたりなど色々と)を打つ。一つやってダメなら「次はこれでいってみようか」と次々と。

 とにかく自分で考え、自分が色々やってみること。その方がいい。
 何せ、自分と全員同じなんて最初からありえないのだから。もしかしたら自分だけが違うのかもしれないし、人間、み〜んな違うものなんだから。


上司はあまり関係ない
 人それぞれ職場も違えば、自分が置かれている職場内での立場も違うので、自分に影響を及ぼす上司がどんな立場の人なのかも違う。
 僕は今、実践者側の一番の責任者なので、僕に影響を及ぼす上司は経営者側の人になる。
 経営者側の人であれば、僕に対して求めるものは大抵想像がつくし、その求めるものが実践者の僕からしたら「そればっかり言われてもなぁ(例えば収支の数字)」と思うことであっても、その人の立場であれば、その求めるものは当然だと思う(筋が通っていればだが)。

 僕は所詮雇われ人だ(ふてくされてこんな風に言っているわけではない)。雇われ人であれば上司の求めるもの(筋が通っていれば)に応えるのは当たり前のことだ。
 自分のやるべきことが明確であるならば、上司が求めるものにさっさと応えて、後は自分のやるべきことに没頭し続けたいと僕は思っている。求めるものには応えず、自分のやるべきことだけやりたいというのは自分勝手でワガママだ。それは、自由は求めるくせに責任は持ちたくないことだとも言える。自由でありたいなら、自由には必ず(自己)責任が付いてまわるものだと僕は思う。


給料・・・・・これは少なからず影響する
 僕にも生活があるし、多少は将来について考えたりもする。なので給料というキーワードは大事だ。
 それに僕はボランティアではない。慈善事業をやっているつもりもない。自分は支援の専門職(プロ)だと自覚しているので、専門職としての仕事をした上でお金をいただくものだと思っている。

 でも介護報酬単価は低く、その介護報酬を賄っている社会保障費や職場の給与体系etcの現状も知っている。無い袖はふれない状態だ。
 だからやみくもに「介護報酬上げろ」「給料上げろ」と簡単に言う気になれない。だからといって「どうせ努力したってこんなもんだしな」なんて諦めるような気にもなれない。自分のやるべきことが明確になっていればなおさらだ。

 なので、自分のやるべきことが明確であるならばそれに対しての努力をしながら、仕事で支援専門職のステータスを上げたいと思う。「なっ、誰でもできる仕事じゃないだろ」って。そのこととともに、今の自分にできることで介護報酬、給与体系などの仕組みを考え、「僕はこう考える」とぶつけていきたい。
 僕も人間だからねぇ。仕事をしたらそれに対する対価は欲しいからねぇ。

◆◆◆◆◆

 そこまで言うなら、さっさと「仕事の目的⇒自分のやるべきこと」を見つけて、モチベーション上げればいいだろって言われそうだけど、人間そんなに都合よくできていない。

 おかしいよなぁ。
 婆ちゃんたちが「人として生きること」への支援に邁進する『覚悟』を決めていたのになぁ。
 その『覚悟』になかなか邁進できない、今の自分を取り巻く色々なことや、結局は自分自身に問題があるのかなぁ。

 よう分からん。
 よう分からんが、なんだか“しっくり”こないなぁ・・・・・。

 まぁそのうち何とかなるかとも思ってはいるだが。


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追伸>>>>>
今回は見事に「小言」になってしまいました。ごめんなさい。
今度書き込みするときは、もうちょっとまともなことを書きます・・・・・・・・・・ね。


「○○療法」に思うこと
2007/09/20(木) 22:06:22

昨日、とある研修を受講して医師の講義(認知症についての話し)を聞いた。

その医師は自身の病院での回想法や動物療法、そして園芸に取り組む婆ちゃんたちの実践を披露してくれたのだが、僕はその話しを聞いて「う〜ん・・・・・」と考えさせられてしまった。

◇◇◇◇◇

今世の中には「療法」と名の付くものがたくさんある。
その昔は、理学療法、作業療法、音楽療法、食事療法、生活(リハビリ)療法・・・。

「認知症の人が大勢になるってよ」と世間が騒ぎ出せば、“認知症高齢者”にはこれがいいと、動物療法、園芸療法、計算(ドリル)療法などなどが登場。
そして回想法というものも世に出てきて、回想法に関する研修が開催されるほどに。
和田行男さん(大逆転の痴呆ケア著者)ではないが、なにやら「認知症ビジネス花盛り」って感じだ。

と、そんなことはさておき、世の中にたくさんある「○○療法」の「療法」ってなんだ?ってことで広辞苑を調べてみた。

【療法】・・・治療の方法。
【治療】・・・病気やけがをなおすこと。また、そのために施す種々のてだて。

さきに触れた医師は医師(=所定の資格を得て、病気の診察・治療を業とする人。医者。=広辞苑より)であり、病院(=病人を診察・治療する施設=広辞苑より)での実践なので「○○療法」を披露することも、“認知症高齢者”にとって「○○療法」はとても良いと語ることもいいだろう。

(ちょっと脱線)
※ただし“認知症高齢者”という表現で語るのはどうかと思う。
これでは認知症の状態にある人すべてに良いものだと受け取れるから。
「認知症の○○さんには効果があった」と言うべきである。

◇◇◇◇◇

僕が「う〜ん」と考えさせられたのはこれだ。

(1)
なんで、認知症の状態にある人が動物と触れ合うと「動物療法」に、園芸に取り組むと「園芸療法」に、昔の物に触れ昔を懐かしむと「回想法」になるのか?

僕たち認知症の状態にない人だってペットを飼うし、土いじりが好きな人は野菜や花を育てる。
アルバムを見たり、TVで昔見ていた番組を紹介していたり、昔よく聞いていた音楽が耳元に聞こえてくれば、家族・恋人・友人たちと昔を懐かしむ。

でも、そのどれも「○○療法」とは言わない。
犬を飼っている人を見かけて「動物療法に取り組んでいるのですね」なんて声をかける人はいないだろう。

人は「人として生き(@自分のことは自分で A互いに助け合って B社会とつながって)ながら」、その「人として生きる」中で、心に癒しが欲しかったり、趣味としてだったりと理由は何でもいいのだが、ペットを飼ったり、園芸に勤しんだり、昔を懐かしんだりする。

だけど、僕らが人として生きる中で当たり前のようにしていることが、認知症の状態にある人がする(取り組む)と「動物療法・園芸療法・回想法」という名に化けてしまうという摩訶不思議なことが平然と世の中で・・・、治療の場ではない人として生きることを応援するはずの介護の現場で・・・おきている。

この感覚は僕には理解できない。

これまた和田さんではないが、僕らが当たり前のようにすることである「ペットを飼う、園芸に勤しむ、昔を懐かしむ」が認知症の状態にある人がして(取り組んで)いると「○○療法」という名に変わるのであれば、認知症の状態にある人がして(取り組んで)いることは、なんでもかんでも「○○療法」と呼べばいい。

認知症の状態にある人が洗濯物をたたんでいたら「洗濯たたみ療法」、掃除をしていたら「掃除療法」、飯を作っていたら「食事作り療法」って。

ほら、こうなると変だよなぁって思うでしょ?

◇◇◇◇◇

次に僕が考えさせられたのは・・・・・、

(2)
本末転倒

僕は、治療の場で治療として「○○療法」を実践するのは構わないと思っている。
ただし「有する能力に応じ自立した日常生活を営むことができるよう支援する」ことが仕事の目的である支援の専門職や支援の実践の場が、仕事の目的は放っておいて婆ちゃんたちを「○○療法漬け」にしているのであれば、いくら「認知症のお年寄りのために」などと心優しき言葉を言っていても、それは本末転倒だと僕は思う。

有する能力に応じ自立した日常生活を営む=人として生きる(@自分のことは自分で A互いに助け合って B社会とつながって)という姿は全て奪い取り、専門職がお女中さん(何でもやってあげる)と化して与えるだけ。
なのに、朝起きてから寝るまで「療法漬け」プログラムのオンパレード。
これはおかしなことだ。

支援の専門職は「支援の専門職として自分は何をすべきなのか」を忘れてはいけない。


そしてもう一つ。
認知症の状態にある人の前になると「○○療法」と名を変える多くのもの。
そのほとんどが、人として生きる中で誰もが当たり前のようにすることだ。
そして、その当たり前のようにすることは、自分にとって必要なことや必要なものであって、自分以外の人・・・他人にとっても必要なことや必要なものなのかは分からない。

何が言いたいんだと怒られそうだが、要は「○○療法」は自分が人として生きる中で自分だけに必要なことであり、そこには「オプション」があるということだ。
自分だけに必要なことなのだから・・・・・。

◇◇◇◇◇

【オプション】(広辞苑より)
いくつかのものの中から自由に選びとること。選択。選択権。
また、選びとる物。選択肢。

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