・グループホームなるとう 施設長の小言です。 不定期更新です。
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「有する能力の復活」と「支援量」のはなし(2)
2009/01/21

 大腿骨頸部骨折による入院〜手術からホームに帰ってきたまきサンの両足は、11日間の入院によって筋力が衰え、術後の痛みが伴う状態となっていた ― 。

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

【病院でのリハビリの現実】

 病院(医師)は術後たいてい、機能を回復しようとリハビリを勧める。

 それは「病人やケガ人を診察・治療する施設」である病院、「所定の資格を得て、病気やケガの診察・治療を業とする人」である医師からすれば当然であり、術後にリハビリを行うとなるのも、リハビリは「治療段階を終えた疾病や外傷の後遺症を持つ人に対して、医学的・心理学的な指導や機能訓練を施し、機能回復・社会復帰をはかること」であるから当然なのだ。

 ただ、これまでの僕の経験からすると、認知症の状態である人を病院でのリハビリで以前の状態(またはそれにできる限り近い状態)に復活させるのは難しい。

 というのも、さっき書いたリハビリの意味には「治療段階を終えた疾病や外傷の“後遺症を持つ人”に対して、医学的・心理学的な指導や機能訓練を施し、機能回復・社会復帰をはかること」とあるのだが、この「〜後遺症を持つ人」の人の前に「認知症の状態である」が抜け落ちているからだ。

 認知症とは「原因となる疾患によって脳が器質的に変化し、そのことによって知的能力が衰退し生活に障害をきたした状態(記憶障害と認知障害がある状態)」なのだが、その状態にある人に対応したリハビリシステムが今の病院にはない。

 わかりやすく言えば、認知症対応型医療(入院)機関・認知症対応型リハビリがないということだ。

 故に、病院でのリハビリといっても記憶障害と認知障害をもった状態にある人に、一般的な状態にある人と同じようにリハビリを施す(施すよう本人に促す)しかなく、結果、認知症の状態である人が以前の状態(またはそれにできる限り近い状態)に戻る可能性は低いと言わざるを得ない。

 これが現実なのだ。

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
 
【その他、入院での現実】

 婆ちゃんたちは入院が長くなると、本来入院する原因となった病気やケガ(部位)以外の障害が現れる(持つ)可能性が高くなる。
 簡単に言うと「病気・ケガは治ったけど、寝たきりになった」っていうやつだ。

 更に、入院となると認知症であるがために拘束される可能性がとても高い。
 それは、認知症であるために「動いちゃいけないのに動く」「点滴の管を抜く」なんてことが巻き起こるからで、認知症の状態であればそれは当然なのだが、認知症に対応する医療(入院)機関 ― システムがないがために拘束という対処をされてしまう。
 拘束された婆ちゃんたちはどうなるか…。ほとんどが有する能力を失い、死んだような目になっていく。

 このどれもこれも、僕のデイや特養で働いていた時から15年の経験からくるもの。

 僕の経験からくる現実なのだ。

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 僕が働くグループホームでは以上の“現実”を踏まえ、入院した場合のその後の方針(考え方)が決まっている。その方針は「入院した場合は早期退院を目指す」だ。

 方針(考え方)が決まったら次は、「その方針(考え方)を踏まえ、支援専門職として自分たちがやるべきこと(仕事)・その方針(考え方)を実現するために自分たちがやるべきこと(仕事)」をやる!!(事前にまとめておくことも大事だろう)。

 ということで、そのやるべきこと(仕事)の第1ステージは「家族・医師(病院)と方向性の共有」になるのだが、そんな第1ステージの話しは次回に。


「有する能力の復活」と「支援量」のはなし(1)
2009/01/17

「イタタタ〜。あ〜痛い」(まきサン)
「ほら、まきサン頑張って」(職員)

 転倒し大腿骨頸部骨折〜入院〜手術〜退院。そしてうちのホームに帰ってきたまきサン。

 まきサンは骨折する以前、自分の足で歩くことができ、自分の意思を行動に移すことができた。
 
 しかし、骨折・入院・手術・退院してきたまきサンは・・・・・。

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 痛みと筋力低下が襲う自分の足。

 そんな自分の足で懸命に床(地面)を踏みしめ、手すりにつかまり体のバランスを保つ。自分で便器に座り小便をするために ― 。
 
 職員は、そんなまきサンを懸命に支え、援ける。

 筋力低下に対しては、ほんの少しまきサンの腰に手を添え、まきサンの立位を補う。
 
 バランスを崩し転倒するかも?というリスクに対しては、いつ転んでも抱きとめられるようにまきサンと絶妙な立ち位置を保つ。
 
 痛みに対しては、痛みに負けそうなまきサンに「頑張れ!!」と声をかけ、心から声援を送る。

 その他の日常生活においても同じ。
 
 起きて・着替えて・顔を洗って・歯をみがいて・飯を用意して・食って・片付けて・風呂を用意して・入って・着替えて・歯をみがいて・寝る。

 このどの場面でも、まきサンは痛みと筋力低下と戦いながら、できるだけ自分のことは自分でと生活を営む。
 職員はそれを支え、援ける。少しでもまきサンが自分のことは自分での生活を営めるように、また以前のように営むことができるようになるために。

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 そしてまきサンは痛みと筋力低下に打ち勝ち、四点杖を使うようにはなったが、しっかりと自分の足で歩けるまでになった。
 認知症であるために、日常生活全般を自分のことは自分でとはいかないが、職員の支えと援けの距離はあきらかに(良い意味で)遠ざかった。

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 次回から、このまきサン(有する能力の復活)と職員(支援量)との物語を書き綴りたいと思います。


罪とエゴ
2009/01/10

 とある研修でのこと。
 僕が講義を終えると、僕の話しを聞いて下さっていた方(中年の女性)に声をかけられた。

(女性)「あの〜…ちょっとお聞きしたことがあるんですがよろしいですか?」
(梅本)「はい、なんでしょう?」
(女性)「うちのグループホームで自立支援をやろう!!と躍起になっている職員がいるんですけど、私その職員の介護に疑問
     があるんです」

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

詳しく聞いた彼女の話しをまとめるとこういうことだ。

*例に出してくれた場面
 その職員が利用者をトイレ誘導している
 =====まぁこの後の状況を聞くと、誘導ではない。誘導とは「目的に向かっていざない導くこと」という意味(広辞苑)を
        持っているから。

*利用者は身体機能低下、特に下肢の筋力低下がかなりある

*職員は自立支援だからと自力歩行させてトイレに連れていくことに躍起

*現状
 ・筋力、可動域、理解力、自分の意思、自発性etcの機能や能力を踏まえるとその機能や能力を発揮することは現状無
  理。なので本人は歩行困難状態

 ・(よって)引きずられるかのようにトイレに“連れて行かれている”(とても歩いているとは言い難い)

 ・これまでの生活歴や病歴、今の生活の状態(生き方)、このグループホームではどんな介護が展開されているのか?、
  などなども聞いてみたが、そこから推測するに、この利用者の自立度アップや取り戻しの可能性は極めて低い(本人に会
  ってないので、あくまでも梅本の推測だが)

 とまぁ、こんなことから彼女は、自立支援という大義名分を掲げれば、こんな介護も許されるのか?と大きな疑問を抱いていたのだ。

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 僕がこの話しを聞いて思ったのは…

 *機能や能力の取り戻し作業をせずに、いきなり歩け・歩けは乱暴、というか本人には迷惑な話

 *自立支援=(だから)歩く…なんで??

 *自立 と 支援 ってなんだろ?って深めてないなぁ。

 *本人の可能性(本人の機能や能力が取り戻し可なのか取り戻し不可なのか)を探って(見極めて)いない

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 その人が人として生きていくためにも、その人の機能や能力を維持する・取り戻すことはとても大切なことだ。
 故に、維持や取り戻しすらせず、低下や放置・放棄を平気でする専門職は、福祉・支援専門職としての罪だ(というか、そのような者を僕は専門職とは思えないが)。

 更に、婆ちゃんたちの機能や能力の維持・取り戻し、そして可能性の見極めはお構いなしで自立支援という大義名分を振りかざす専門職は、福祉・支援専門職としてのエゴだ。

 僕はそう思う。

 婆ちゃんたちが人として生きるために大切な機能や能力の維持・取り戻しをしていないならまだしらず、あなたがもし自立支援をやっていくぞと思っているのなら、維持や取り戻し、可能性の見極めを行っていくためにも、自立支援という言葉の響きや実践のうわべばかりに酔うのではなく、人間の機能や能力ってどんなものがあるのか?なんていう基本的なことをぜひ知ってほしい。

 僕が今まで出会ってきた「人が生きること支援」に邁進しているすげぇ〜なって思う人たちはみな、人間の機能や能力、そして介護(特に身体介護)の基本中の基本を身につけていたからこそ、ホントそう思う。


介護報酬改定(案)
2009/01/04

平成21年は、4月に介護報酬改定が実施される====

 皆さんは、20年12月26日に開催された「社会保障審議会介護給付費分科会(第63回)」の資料はご覧になっただろうか?(まだだよって方はぜひ見て下さい。WAMNETに公開されていますんで)

◆◇◆◇◆◇◆◇

 今回の報酬改定は「重度者・看取り・リハビリ・認知症」をキーワードに、在宅(居宅)サービスを拡充する方向のようだ。
 それを表わすかのように、介護報酬の引き上げ幅3%のうち、在宅1.7%、施設1.3%となっているし(でも在宅1.7%増といっても医療系中心のようだ)、やたらと「認知症○○○○加算」なんてものがたくさん出てくる。

 それはさておき、今回の報酬改定の資料を読んで僕が思ったのは「複雑だなぁ…」と「ちょっとおかしくないか?」だ。

◆◇◆◇◆◇◆◇

〜複雑だなぁ〜

 今回の報酬改定の特徴は「基本報酬ほぼ据え置き」と「加算の見直し・拡充・新設」だ。

 その特徴である加算。
 4点キーワードに加え、人材確保定着をねらって介護従事者の専門性などキャリアに着目した評価(加算)が目白押しなもんだから、報酬体系は一層複雑になった。
 これじゃあ、利用者(家族)は分かりにくいだろうし、僕ら専門職も事務手続きが煩雑になるのは間違いない。

 使う側にとっては「使いにくい制度(強化)」になり、使ってもらう側にとっては「直接的支援時間減少(強化)」となるんじゃないだろうか?

 なんだか厚生労働省(官僚)に「わざとか?」と勘繰りたくなるのは僕だけだろうか…。

◆◇◆◇◆◇◆◇

〜ちょっとおかしくないか?@〜

 今回の報酬改定において「認知症」がキーワードになっている。「認知症高齢者等の増加を踏まえた認知症ケアの推進」というやつだ。
 でも僕は認知症が医療モデル化してきているような気がしてならない。
 確かに予防や医療体制の強化は必要だとは思うのだが、認知症の状態にある人が、せっかく僕たち専門職の先人達が築いてきた「生きること支援」から遠ざかっていくように思うのだ。

 認知症であっても人が生きる姿から遠ざからないようにするにはどう支えていけばいいのか?
 認知症の状態にある人たちにどんなふうに生きてもらうのか?

 そこを明確にし、その上で、日本という国は「こんな社会(ステージ)を作っていく」「作るために何をする」としていかなければいけないと思うだが…。

◆◇◆◇◆◇◆◇

〜ちょっとおかしくないか?A〜

 人材確保定着をねらった今回の報酬改定。
 そう言っておきながら、なんで人件費割合が下げられる事業が多いんだ。例えば認知症対応型共同生活介護なら人件費割合が60%から45%になり、小規模多機能型居宅介護は60%から55%。

 これにはどうにも納得がいかない。と、言うよりも腹が立つ。
 認知症介護の切り札・地域拠点などとグループホームを持ち上げて(いや負担を強いて)おいて、厚生労働省や審議会の委員の皆さんは、グループホームが人件費率45%で運営できると思っているんだろうか?

 僕は思う。
 「お前らそれでやってみろ!!」
 「真剣に認知症の状態にある人たちの生きることを支えるには?って考えているのか?」
 と…。

◆◇◆◇◆◇◆◇

 今回の報酬改定は小幅改定だ。3年後は制度改正と同時に報酬改定が行われるので、その時はまさに勝負と言っていいだろう。

 なので僕たち専門職はこの3年間、“実践の中で今回の報酬改定を検証”していく必要がある。
 実践者である僕たち専門職がそれを行い、声をあげていくことがとても大事なのだ。

 そして報酬改定(制度改正も含め)を議論するときは、目先の(これも大事なことではあるけれど)人材確保定着ばかりに着目せず、認知症の状態にある人たちにどう生きてもらい、それをどう支えていくのか。それを実現するにはどんなシステム(報酬・制度も含め)を作っていけばいいのかをテーブルに置いて考えていくことが必要だと思う。

◆◇◆◇◆◇◆◇

追伸===========
 今年は連絡会の活動に力を入れていくつもりです。このブログも頑張ってもうちょっと定期的に更新していくつもりです。
 ですので皆さん、今年もよろしくお願いします。

 最後になりましたが新年の挨拶を。
 A HAPPY NEW YEAR


最近、思うこと
2008/07/17(木) 00:41:04

 お久しぶりです。

 前回の書き込みは5月2日・・・・・ゴールデンウィークまっただ中のことだったんだと、さっき確認した梅本です。もうすでに季節は梅雨も明けようかというのに、のんきなものだ(笑)。
 なんでまたこんなにも書き込みの間が空いたかというと・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・書こうという気持ちが一切わかなかった。― のだ。
 まあ簡単に言えば「書く気にならねえなぁ」ってこと(大笑)。
 このブログの一回目の書き込みにも書いたけど、「定期的不定期」で続けますって宣言してあったので許してください。

 さて、前回の書き込みを読み返してみると、(次回につづく)となっているではないか。すでに2ヵ月半前の書き込み。次回につづくのつづくの内容はなんなんだ?と思い返してはみたものの、さっぱり思い出せない(苦笑)。
 なので今回は、題名のとおり、梅本が「最近、思うこと」を書き込みたいと思う。

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

〜ガソリン価格高騰に思うこと〜

 ほんとガソリンが高いよなぁ。ニュースで見たんだけど、僕の戦友であり良き先輩でもある白仁田敏史さんが生業を営んでいる長崎県なんて、離島がたくさんあるのもあって、全国一ガソリンが高いそうだ。そして一昨日なんて、漁業者のみなさんがストライキ、福祉業界も送迎とかいろいろあるからガソリン高は多いに困る。他の業界だってガソリン高は頭が痛い。産業だけにとどまらず、一般家庭、一国民が今日・明日を生きる(生活する)ために困っている。

 で、そんなガソリン価格高騰で思うこと。

 ガソリンというよりも、原油の元値そのものが高騰している。と、いうことは、原油価格そのものが高騰しているんだから、当然ガソリンそのものの元値も高くなる。
 だったら、元々高くなってしまうガソリンに、道路特定財源なる道路の建設・整備に充てるための税金を掛けるのは一時止めにしたらどうなんだろう?。一時止めるのは無理ならば、税率を下げるとかはできないの?。ガソリンの元値が下がるまでの間・・・・・。

 色々と使途不明なところもあると言われている道路特定財源。来年には一般財源化するとか福田首相は言っているけど、そんなことよりも、今の国の状況、国民の生活に目を向けて道路特定財源について考えてほしいなぁ。このままじゃ、多くの産業は成り立たないし、国民も今日生きることも難しくなる。そうなったら、日本という国そのものの将来も危ういと思うのだが。

 道路特定財源がなくなったら道路建設・整備ができなくなるというなら、ちゃんと国民に聞いてみたらいいのに。

 「みなさんの生活を考えてガソリンの高騰を抑えたいと思っているのですが、ガソリンの元値そのものが高騰しているので、ガソリン代を下げる手立ては道路特定財源を一時的に止めるしかありません。そうすることでガソリン代は下がります。でも、道路特定財源による税収がなくなるので、しばらくの間、道路建設・整備ができなくなります」と。
 道路特定財源を止めれば・・・・・(メリット)ガソリン代が下がる   (デメリット)道路建設・整備ができなくなる  
 
 なんでもそうだけど、どうもこの国の政治家さんたちはいいとこどりしようと考えているのか物ごとの解決策について、その解決策(手立て)をとると、こんなメリットとデメリットがあるということを伝えない気がする。だいたいのことは夢なような解決策なんてなかなかない。大抵メリットとデメリットが存在する。
 だから正直に自分たちが考えた解決策(手立て)と、それに伴うメリット・デメリットをちゃんと伝えて、国民に「どちらがいいですか?」と問い掛ければいいのにと僕は思う。

 あっそうそう、道路特定財源のことでいえば、止めるか止めないかという二者択一だけでなく、折り合いをつける策もあるんじゃないかな。税率を下げるっていう策が。
 で、税率が下がるとガソリン代は今より安くなる。でも、たくさんの道路建設・整備は無理。だけど、税収が全くないわけじゃないから全然道路建設・整備ができないわけじゃない。なので、限られた税収を充てるのは、新潟県中越地震や宮城内陸地震などの被災地の道路建設・整備を優先する、または被災地などの道路建設・整備のみにする・・・・・とか。
 そんなことだって、国民に聞いてみたらいいのに。

 まあ、道路建設・整備が全くできないとなると、土木・建設関係の業者さんやそれを生業としている人は困るんだろうから、こんな素人考えはあり得ないのだろうけど。でも、それはそれで考えるってこともできると思うんだけどなぁ。道路建設・整備=土木・建設関係の産業を成り立たせる=だから道路特定財源の確保なんて狭い視野で物事を見るんじゃなくて、物ごとの判断や手立てを考える芯となる信念を持ち、国全体・国民全体を見て、この国の在り方・将来についてビジョンを描いてほしいな。日本という国の舵を握っている人たちには・・・・・。

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

〜まるでネットカフェと言われている厚労省に思うこと〜

 お暇なようですなぁ。一部の厚労省の職員(国家公務員)さんたちは。

 で、思うのだが、暇なら厚労省の職員なんだから人員不足で苦しんでいる介護現場にお手伝いに来てくれないだろうか。
 せっかくいる国家公務員さんたちなんだから、政治家の皆さんも人員が多すぎるって辞めさせようと躍起になるだけが手立てじゃないでしょ。厚労省から人事交流研修として出向(派遣)して、2〜3年介護現場で戦力として働き、そして厚労省に戻る。
 これは決して厚労省だけじゃない。農林水産省だって同じことをしてみたらどうだろう。漁業や農業だって人手不足で苦しんでいるというし、漁業・農業を生業としている人たちの高齢化も問題なっているというのだから。

 介護現場もそう、漁業や農業もそう。それに関係するシステムを作る人たちは、その現実を知るべきだと僕は思う。現実を知れば、いいところもわるいところも見えてくる。そのうえで将来へのビジョンを描き、システムを作っていけば、よりいいものが作れると思うんだけどな。
 それに何よりも人手不足も解消する。まさに一石二鳥。

 そんな簡単なことじゃないって?
 そうかな? 変に何か新しいことをしてそれに税金を投入するより、どうせすでに税金使って給料を払っているんでしょ、暇を持て余している各省の職員さんたちに。だったら税金を有効に使うためにもいいと思うんだけどな、この手立て。

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 と、まあ、他にも色々と思うことはあるんだけど、このあたりで。


 次回は、5月2日の書き込みのつづきを書けるように、次回につづくのつづくは何だったのか思い出しておきます。
 まあ思い出すのは無理だろうけど・・・・・・・・・・。

 でも書きます!!

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 最後にひとつお知らせ。

 中央法規出版さんが発行している認知症ケアの新地に種まく情報誌「りんくる」という雑誌の最新号(vol.21)で、「認知症ケアって何ですか?新人職員の知りたい・聞きたい、悩み&疑問」という特集が組まれています。
 で、その中の「認知症ケアって何だろう?」っていう内容に回答者として梅本が執筆していますので、よかったら一度見てください。
 最新号といっても、発行されたのは6月15日ですが(笑)。

 では。


変わる前のぼく・・・(その1)
2008/05/02(金) 06:48:38

 「個別処遇 と 関係性の構築」
 9年前、うちのグループホームが打ち立てていた介護の理念だ。
 
 個別・・・・・一つずつ別に。個々別々に。   処遇・・・・・待遇のしかた。あつかい。  ともに広辞苑より。
 
 特養で働いていた僕は、入居者を集団にまとめあげ、施設・職員の都合に合わせてあつかうこと・・・・・業界用語でいえば、集団処遇というやつに強い嫌悪感を持っていた。なので、グループホームで働くことが決まってからは、集団処遇の裏返し個別処遇を介護の理念として打ち立て、スタッフにもそのことを伝え続けた。

 「一人ひとりを大事にしよう」「一人ひとりの希望や要望に沿って介護を提供しよう」と僕もスタッフも必死。入居者が「散歩にでも行きたいねぇ」と言えば、「よし分かった。行こう」と散歩に行く。そんなとき、僕は「特養じゃこんなことできないだろう」とこころのなかでつぶやいていたものだ。

 そんなこんなで3年。3年間必死に走り続けてきた僕とスタッフは疲れ果てていた。
 そんななか入居者の姿を見渡すと、皆ボーっとした表情で、なにごとにおいても受動的。その姿は、僕が特養のころ見ていた婆ちゃんたちと同じ姿なのだ。
 まさに「死んだ目の状態」。
 特養じゃできないだろうと思うことを必死にやってきたのに、結果は特養のころと同じになっている。

 なんで? どうして?
 あんなに入居者一人ひとりの希望や要望に沿ってきたのに・・・・・。あんなに入居者一人ひとりを大事にして、できる限り集団あつかいはしてこなかったのに・・・・・。
 めちゃめちゃ悩むことになる。

 でも疲れ果てていた僕は、「おかしい。これじゃあダメなんだ」と気づいていながら、疲れていることを言い訳にして考えることを避け、なにも手立てを打つことはなかった。
 いや、考え、手立てを打つことを避けた一番の理由は、「こんなにやってあげたのに」というあまりにも自分本位な僕の思いに対する入居者の裏切り・・・・・「死んだ目」をした姿に対して落胆し、やる気を無くしたからだ。


 時は、わがグループホーム開設4年目、2003(平成15)年の春のこと。


(次回へつづく)


南氷洋の雨
2008/04/18(金) 06:45:56

 一昨日の新聞に、調査捕鯨船団の調査母船が東京・大井埠頭に帰港したとの記事が載っていた。船団を構成するほかの5隻も19日までに同埠頭やその他の港に分かれて順次、帰港する予定だそうだ。
 日本にいる僕たちも新聞やニュースに報道されていたから知っているように、今回の調査捕鯨は相当な妨害を受けたそうで、捕獲数は計画の6割程度にとどまったという。

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 僕の故郷は千葉県館山市というところなのだが、この館山市からほど近い和田というところに捕鯨の港があることもあって、僕にとって鯨肉は子どものころから食していた、とても身近なものだ。その感覚は今も変わらないのだが、その感覚は僕だけのものであって、僕と同じ日本人の多くがその感覚かというとそうではないようだ。

 最近とあるニュースで鯨肉について街頭インタビューを行っている様子を放送していたが、多くの人が「鯨肉が食べられなくなっても困らない」と答えたそうで、その理由のほとんどが、食べたことがないから。なので、調査捕鯨ができなくなっても構わないといった趣旨の意見が多かったと、このニュース番組では放送していた。
 日本は1986(昭和61)年に商業捕鯨を凍結したので、日本の食卓から鯨が消えて20年以上が経つ。なので、食べたことがない=身近なものではない・・・・・だから「食べられなくなっても困らない」という理由は当たり前といえば当たり前で、まさに僕とは逆の感覚というわけだ。

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 捕鯨という舞台のど真ん中にいない僕たちにとっては、調査捕鯨・鯨肉を食するといったことに対して考え及ぶことといったらこんなもので、自分自身の感覚をよりどころとする(しかない?)。ただ、この感覚というやつは厄介で、感覚で物事を考えたり、判断したりするっていうのは正直危なっかしい。
 感覚というのは、ことばの意味が3つあるそうで、1つは視覚・聴覚・触覚・味覚・臭覚などのことをさす。2つ目は「物事を感じとらえること。また、その具合」、3つ目が「(接尾語的に)あたかも・・・のような感じである意」だそうだ。

 調査捕鯨・鯨肉を食するということを考えるとき、本来は日本という国における捕鯨や食文化の歴史、今なぜ捕鯨が国際社会において、国と国との間において問題になるのかという問題の本質・・・などなどの様々な事実を知り、そのうえで検証していくことが必要だろう。そして今だけを乗り越えるための手立てではなく、将来のビジョンを描きつつ、その将来のビジョンを実現するために今できること・やるべきこと(手立て)を考え、打っていくことが大切ではないだろうか。

 これはなにも捕鯨に限らず、国の施策についても同じに思うし、支援の現場においても同じだと思う。認知症の婆ちゃんたちのトンチンカンに「困ったどうしよう」、仕事が多い・でも時間に限りがある「困ったどうしよう」、人手不足に「困ったどうしよう」、人間関係や何やらが問題となってチームが作れず「困ったどうしよう」、上司・同僚とうまくいかない「困ったどうしよう」、スタッフを育てなきゃいけないけど上手くいかない「困ったどうしよう」などなど他にもいっぱい・・・・・。
 
 何事においても「困ったどうしよう」で足が止まってしまい、その問題の(発生している)本質は何なのかという事実を知り、検証し、ビジョンを描き、そのビジョンの実現のために今できること・やるべきことを考え、手立てを打つことがなかなかできない。
 へたをすると、何事においても「困ったどうしよう」感覚に陥るといったマヒ状態、もっとひどい場合は「困ったどうしよう」を他人のせいにしてしまっているのではないか?


 感覚は厄介なやつ。そして物事を考えるとき、感覚をよりどころにするのは危なっかしい ―。
 調査捕鯨の一件で、そう考えさせらた。


◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
 
 僕の高校時代の親友は、高校卒業と同時に調査捕鯨船団の一員となり働いている。

 母船の母港は下関。その下関から南氷洋にむけ1万2千キロの航程を1ヵ月かけて航行し、5ヵ月間操業するのだそうだ。
 我が親友は高校卒業から16年もの間それを続けている。我が親友とはいえ、大したもんだとつくづく思う。自分には絶対できないことだから余計に・・・・・。

 そんな親友と(下関に住んでいるからなかなか会えないので)何年かに1度は再会し、酒を飲みながら語り合うのだが、昨年の秋その機会があった。
 
 そのとき親友からこんな話しを聞いた。
 「南氷洋に雨が降った」と ―。



 16年南氷洋の姿を見てきた親友は、初めて目にする南氷洋の雨に驚いたそうだが、我が親友よりも遠い昔から南氷洋の姿を見てきた先輩船員たちは、その雨を見て涙したそうだ。氷の世界である南氷洋に雪が降らず、雨が降っているその光景にショックを受けて・・・・・。


 そして親友はこう語った。
 「地球はここまで壊れてきている。だからこそ一人ひとりが地球温暖化を自分の問題として、今自分にできることをやらなきゃいけないぞ」

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 地球温暖化については社会問題、いや国際社会全体の問題として随分と騒がれている。
 でも僕は、本当に温暖化が進んでいるのかを自分自身が体験することがほとんどないといってもいいので「地球は温暖化が進んでいるのかぁ」「温暖化が進むと大変だよなぁ」と思う程度。なぜ温暖化が進んでいるのかもよくわからないし、自分自身も含め、何を・どんなことを・みんなで取り組まなければいけないのかもよくわからない。
 それに、その問題(説)が現実のことになるのか今ところわからない。

 それは地球の温暖化だけに限らず、認知症についても同じじゃないだろうか。
 今は認知症の状態にある人は170万人にいる。じきに350万人になる。2015年には国民の50人に1人が認知症になる・・・・・と言われている。

 でも今はわからないからといって、自分も含め多くの人たちが今自分にできることを今やらなくていいというものではないし、自分が体験していないからといって他人事として捉え、解決を他人任せにしていいとも思わない。  
 わからないことだらけだけど、その問題(説)が現実のことになり、「ああ、困ったどうしよう」ってなってからでは遅いということはわかるから。だったら、自分自身がそのときをむかえたときに後悔しないためにも、今自分にできることを今やっておきたい。
 認知症についても、地球の温暖化についても。


 「南氷洋の雨」 ―。
 我が親友のことばに、そう考えさせられた。


研修未受講キャラバン・メイトと4歳の認知症サポーター
2008/04/10(木) 00:56:08

 うちのグループホームに入居して7年になる ゆう子(仮名)さん。

 彼女はアルツハイマー型認知症を患って8年になる。(診断を受けたのは8年前だが、家族から聞いた自宅で見られた彼女の言動などからすると、恐らくそれより以前から患っていただろう)
 進行性の難病であるアルツハイマー病。彼女の意思とは無関係に症状は穏やかに進行していっているため、今の彼女は、記憶障害・見当識障害・認知障害・実行機能障害と多くの障害をもち、日常生活を送るにはかなりの支援が必要だ。

 でも彼女は「それがどうしたのよ」とばかりに今日も元気に生きている。きっと明日も自分の意思を行動に移し、西へ東へと自分の足で歩いていくだろう。

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 そんなゆう子さんには心優しき家族がいる。
 物静かだが、いつも母であるゆう子さんを心配している息子さん。その息子さんの妻であり、ゆう子さんを自宅で懸命に介護していたお嫁さん。彼女のためにステキな音楽を奏でてくれるお孫さん。
そして愛くるしいみんなのアイドルひ孫ちゃん(4歳・女の子)。

 みんなゆう子さんのトンチンカンを上手に受け止め、心優しく包み込む。他の利用者のトンチンカンに対しても同じように。
 特に関心してしまうのがひ孫ちゃんで、4歳にして見事な支援ぶりなのだ。

 ゆう子さんの障害の中でも、一番苦労するのが言語。彼女が発する単語のほとんどが今の彼女を包み込む環境とは不一致なものばかり。文章を発しても意味不明なものが多く解読するには困難を極める。ゆう子さん自身も、他人の言語のそのほとんどを理解することができない。いわばコミュニケーションやゆう子さんとの関係づくりには大きな壁があるのだ。

 しかしひ孫ちゃんはその壁を乗り越え、ゆう子さんに上手く向き合っている。いくらゆう子さんが子ども好きとはいえ、それを差し引いたとしても「お見事!!」なのだ。

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 ある日面会に来たお嫁さんと話しをする機会があったので、僕がひ孫ちゃんのお見事ぶりに関心したことを伝えるとお嫁さんがこんなことを教えてくれた。


お嫁さん
「梅本さん、うちのひ孫ちゃん(もちろんこの時は名前を言っていましたよ)ね、ある日突然わたしにこんなことを聞いてきたんです」

梅本
「何を聞いてきたんですか?」

お嫁さん
「ねえ、ゆうちゃん(家族は彼女のことを愛情込めてちゃん付けで呼んでいる)は、どうしていつもヘンなの?って」

梅本
「まあそう聞いてきて不思議じゃないですよね(笑)。」

お嫁さん
「そうなんですよね(笑)。何も知らないひ孫ちゃんからしたら、そう聞いてきて当たり前なんですよ。自分が見たことに、ただ純粋に疑問を持ったってだけのことですから。でもわたし悩みましてねぇ・・・。この子にホントのことを言うべきかどうかって。まだ4歳ですし、理解できるかも不安でしたから」

梅本
「うんうん。で、どうしたんですか?」

お嫁さん
「最初は何とかその場を上手くごまかして、もう少し大きくなってからホントのことを伝えようかと思ったんですけど、それっておかしいなと思いましてね。だってゆうちゃんの病気は恥ずかしいことでも何でもないですから。だからこの子がわかってくれるまで何度でも説明しようと思いましてね」

梅本
「そうかぁ・・・お嫁さん、あなたはエライ。で、説明したんですね?」

お嫁さん
「ええ。『ゆうちゃんはね、あたまのびょうきでね・・・・・』って。最初のころは『??』って顔してたんですけど、あの子がゆうちゃんのことを聞いてくるたびに何度も説明していたら、いつの頃からか『そうかぁ。ゆうちゃんはあたまのびょうきなのかぁ』って理解してくれたようで」

梅本
「じゃあ、お嫁さんが何度もひ孫ちゃんに説明したからこそ、ひ孫ちゃんは理解して、それがあの見事なゆう子さんへの向き合い方になっているんですねぇ」

お嫁さん
「そうみたいです(笑)。私も説明して良かったって嬉しくて(笑)。あっそうそう梅本さん、私ね、今回のことで勉強しましたよ」

梅本
「うん?」

お嫁さん
「認知症だってことを隠してたらいけないってこと。隠していたらいつまでも認知症への誤解がなくならないし、認知症を理解してもらったり、本当のことを知ってもらわなければ、おかしな扱いとか差別みたいこともなくならないですもんね」

梅本
「うん。ホントそのとおり!!」

お嫁さん
「それと勉強したことがもう一つあるんです。子どものうちから認知症のことを理解したり、知っておくって大切だなぁって。そのためにも子どものうちから認知症の人と一緒に過ごすことも大切じゃないかしらって思いました。子どものうちから認知症の人と一緒に過ごしたりすることで、認知症のことを理解したり、認知症のことを知っておいてくれたら、小さなうちから認知症の人に優しく手を差し伸べてくれるだろうし、そんな子どもたちが大人になってくれたら、私がもし認知症になったとき安心だもの(笑)」

梅本
「ホントそのとおりです。それにしても、お嫁さん、あなたはエライ!!」

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


 4歳の認知症サポーター誕生。

 そして、この4歳の認知症サポーターを誕生させたのは、認知症サポーターを養成する講師役になる人が受講するキャラバン・メイト養成研修を受講していないお嫁さん(一般人)である。



 研修未受講キャラバン・メイトと4歳の認知症サポーター。こんなステキな人たちが支援専門職である僕のすぐそばにいてくれる。そして学びと気付きを与えてくれる。

 本当にありがたいことだ。


誕生日
2008/04/04(金) 06:09:50

 誕生日―。

 それは誰もが必ず持っているもの。
 しかも、誰かと分け合うものではなく、自分だけのもの。

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 僕が以前勤めていた施設(3ヵ所)では、毎月月末になると、その月に誕生日を迎えた利用者の誕生会を催していた。
 昼食の時間、食堂に集まった(集められた?)大勢の利用者の前で、スタッフがマイクを握り声高らかに皆に紹介する。

 「○月に誕生日を迎えられた方は、□さん、△さん、◇さん・・・・・です」と。

 そして、皆の前でプレゼントを渡され「おめでとう」の声と拍手が鳴り響く。
 こんな風景は、今も多くの施設で見られるようだ。
 
 以前僕が訪れた施設では、「○月誕生者のみなさん」と書かれた模造紙に、折り紙などの装飾と一緒に本人の顔写真が貼られ廊下に貼り出してあった。恐らく、施設を訪れた人たちに「今月はこの方達が誕生日を迎えます」と紹介するためにこうしているのだろう。

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 僕はこの業界に足を踏み入れたときから、この「集団誕生会」に疑問を抱いていた。「どうして本人の誕生日当日に本人一人を祝うことができないのだろう?」と。

 まだ、何の権限も決定権も持たない一介護職の頃には、そんな疑問を素直に上司にぶつけてみた。
 多少の権限と決定権を持つようになった生活指導員(10年前は指導員と言いました)の頃には、そんな疑問を集団誕生会を企画する介護スタッフにぶつけてみた。

 結果はどちらも「何でそんなことを聞くんだ?」とばかりに怪訝そうな表情を見せ、こう僕の疑問に答えてくれた。
 「一人ひとり、その人の誕生日の当日にその人の誕生会をやっている時間はない」
 「もしそんなことをしたら、多くの日に誕生会をやらなければならないし、そうなれば多くの日に誕生会の時間をとらなければいけない。たくさん “業務” があって毎日忙しいのだからそれはできない」

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 いったいどれだけその人一人のための誕生会に時間がかかるというのか? 10分、15分ですら、一人の人を祝福する時間もないのだろうか?
 時間をつくる工夫や、集団誕生会ではなく、○○さん誕生会が催せるシステムをどうすればつくれるのか?考えたことがあるのだろうか?
 もっと言えば、そんなに時間と労力を惜しむのなら、今やっている集団誕生会は、心からその人を祝福しているのではなく、毎月の行事・レクリエーション(決まりごと)だからやっているに過ぎないのではないだろうか?

 そんな施設に 「尊厳を尊重します」 「心からお世話します」 「愛情を持って接します」 などといった響きの良い美語を並べた理念が、達筆な字で立派な額に入って玄関なんかに掲げてあったりするから苦笑とため息が同時に出てしまう。
 まさしくその美語は「まやかし」であり、その施設(介護)を利用する婆ちゃん・家族(消費者)を「介護詐欺」にあわしているようなものだ。

 響きの良い美語  集団誕生会  

 誕生会ひとつを捉えてみても、「ことば と じっせん」の対比から、この業界には世間・一般とかけ離れた異質さがあると僕は感じるのだが、みなさんはどうだろう?

 美語を簡単に使ったり、やたらと語ったりする前に、おかしなことにおかしいと気付ける・気付くことが、この業界・この業界で生業に励む専門職には大切ではないだろうか?


◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


 誕生日はその人だけの「特別な日」―。

 だからこそ、そのときだけは特別扱いしてほしい。その人だけを心から祝福してほしい。
 
 たとえ、記憶障害があるために誕生会を催したことを忘れてしまうであろう認知症の状態にある人であっても・・・・・。
 記憶には残らないけど、そのときを皆と一緒に過ごし、そのときの皆の祝福を、そのとき感じることができるのだから。

 ささやかでいい。ほんのちょっとの時間でいい。
 
 そのときを大切にして。


行動の保障 〜その4〜
2008/03/26(水) 03:09:47

 認知症の状態にある人の行動の保障と、専門職の人員配置は切っても切れない関係にある。

 認知症の状態は、自分の意思を行動に移せるがやり遂げることが難しい病態という特徴がある。故に、24時間・365日いつ・どこで・どんなふうに生活の中の障害が生まれるかわからないので、24時間365日、目が離せない。

 グループホームでいえば、その状態にある人が1ユニットに9名入居しているとして、1日につき9名×24時間=216時間分の支援体制が必要ということになる。
 特養だったら、50名入居として、そのうちの半分25名が動ける状態にあるとしたら、1日につき25名×24時間=支援体制が600時間分必要ということだ。

 しかし、国が定めている最低の人員配置基準を満たしていたとして、1日つきグループホームなら32時間分の支援体制となるので、グループホーム入居者の生きる総時間数 1日つき216時間に対し、それを応援する支援体制(人員配置)は32時間分しかないということになる。
 特養ならたいてい日中入居者5ないし7〜9名に対して職員1名の配置なので、5:1で考えたら日中だけで80時間分の支援体制だ。

 どう考えても認知症という病態の特徴を踏まえたら、いくら国が示す支援・福祉の方向(=理念)の実現を目指しても、現実的には無理が生まれてくる。

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 故に、支援の現場ではこんなことが起きてくる。

 懸命に、認知症の状態であっても「有する能力に応じ自立した日常生活を営む」ことを応援すればするほど無理をし、最悪の場合燃え尽きて、この業界から去ってしまう専門職。

 人員配置はあくまでも最低基準を満たしていればいいと人件費をできるだけ削り、あとは認知症の状態にある人の行動を保障するのではなく、「動かすな」と現場の実践者に命令し、認知症の状態にある人の行動を奪っていくだけの経営者。

 このどちらの現実からも分かるのは、「人員配置は認知症の状態にある人の行動を保障する数」だということだ。

 国が定めている最低基準の人員配置は、認知症という病態の特徴を踏まえ、その上で国が示す支援・福祉の方向(=理念)の実現ができることを考えて設計されているとは思えない。
 しかし、人員配置は認知症の状態にある人の行動を保障する数だということを念頭に置いて、できる限り、人員配置にお金を使うように経営者の方にはお願いしたい。

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 さて、現場の実践者のみなさん。

 認知症の状態にある人たちの行動を保障するといっても、システム(人員配置基準)の不具合などの理由から、現実にくじけ、施錠は仕方がないと諦めるか?
 それとも、完璧は無理でも、少しでも行動を保障できるように今の自分にできることを少しずつ積み上げていくか?

 道は二つに一つ。
 さぁ、あなたはどっちの道に進む?

 最後に、諦める道を選ぼうとしているあ・な・たへ。
 特養・老健・グループホーム、そのどれもが施錠しているところと、施錠していないところがある。特養と特養、老健と老健、グループホームとグループホーム、同じシステム同士でも施錠しているところと、施錠していないところがあるというこの現実をあなたはどう考える?

(行動の保障 お・わ・り)

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